昭和元年、基次郎は伊豆湯ヶ島の落合楼へ行き、
すぐに川端康成の居る湯本館をたずねました。
川端は湯本館の板前を通じ基次郎に湯川屋をしょうかいしました。
昭和2年、基次郎は京大病院にて受けた診断にて、
惨憺たる結果を訊かされます。
精神的にも死へ突入しようとしているだとか、悲壮な姿勢を見せてます。
しかしこの悲壮感が創作への情熱に吸収され、数々の名作を生みました。
「蒼穹」や「筧の話」などの短編を書き上げた基次郎はさらに
そのような作品を書きたいという願望を持っていました。
しかし、基次郎自身では自分の書くものは「生活へ」の反対であり、
正しい芸術ではないと自覚も持っていました。
昭和三年、正しい芸術を物にすべく生活へ向けて活動しようと志し、
湯ヶ島の地を去り上京します。
現社会の最も面白いところにふれようと、
本所深川あたりを二、三回訪問したのですが、
自分の健康状態では無理だと知って、
中谷孝雄等友人の忠告に従って9月には帰阪してしまいます。