大阪時代
終焉の地で
大阪に帰った基次郎は父の死に遭います。
突然の父の死に自分が気がつかなかった事を
道徳的な呵責を感じ自分を責めました。
その後基次郎は病床に有りながら「資本論」に夢中になります。
そして基次郎は大阪に帰った後の母や弟との生活の中で
「生活」や「現実」の重みを、実体を知り始めます。
これは「のんきな患者」に通じるものがあります。
病床で身動きのできない基次郎は旧「青空」同人たちを気遣いました。
そして基次郎を取り巻く友人たちの基次郎に対する友情も厚かったのでした。
三好達治は見舞いに行った折の基次郎の衰弱ぶりをみて、
彼の創作集出版を企てます。
三好達治、淀川隆三の二人の友情によって、
生前唯一の創作集「檸檬」が完成します。
昭和5年後半基次郎はよく「人間勉強」という言葉を繰り返していました。
どうあがいても現実から出発するほかになく、
なによりも、自分自身の修行を必要としたのでありましょう。
基次郎にとっては病気ということが現実の全てであったのです。
こうした姿勢が自分の心を凝視して苦痛を感じてしまっても、
こんな心のままでは死ねないと、死の一年前に
「のんきな患者」を書き上げました。
この作品は「小説らしい小説」にしようとした意図など、
とても意欲的なものでした。
基次郎は絶望しながら生きることはできないと
若い頃軽蔑していた森鴎外、とくに史伝ものに惹かれ
新たな世界を構成しようと考えていました。
しかし、死が許さなかったのでした。
昭和7年三月二十四日、永遠の眠りについたのでした。