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日本の詩の移り変わりを紹介するまろ 新しい律令国家が整備され、貴族を中心とする官僚社会の中で、個人の自覚に基づいた叙情的な歌が読まれるようになったまろ。そうした中で短歌と長歌が繰り返される歌謡ができたまろ。この歌謡が、個人の心情を詠む和歌に変わり、これを編集した歌集が続々とできたまろ。「万葉集」はその歌集をまとめたものだまろ。 その後、平安時代まろ。貴族が中心の時代で平仮名の普及で、日本人国有の感情を豊かに表現できるようになったまろ。そのおかげで、華やかで繊細な和歌ができて、最初の勅撰和歌集として紀貫之が「古今和歌集」を編んだまろ。以後和歌は、宮廷の宴席や社交の場でさかんに詠まれるようになったまろ。「古今和歌集」はのち約100年後くらいまで、最高の和歌集と言われたまろ。
時代は変わり、鎌倉時代まろ。いままでずっと、「古今集」が最高と言われていたけど平安時代から鎌倉時代になって、貴族中心の社会から庶民や武士の時代になり、連歌というものができたまろ。連歌とは複数の作者たちが共同で制作する新しい文芸として、貴族や武士や庶民の間でゲームのような感じで広まったまろ。複数の作者たちは連衆(れんじゅ)とよばれ、彼らが一堂に会する場は座と呼ばれたまろ。連歌は五七五を発句とし、七・七→五・七・五→七・七を挙句としこれをみんなで作っていくまろ。ルールは季語をを入れることまろ。 そして、連歌論書「ささめごと」を書いた心敬に学び連歌の大成者となった宗祇だまろ。そして、歌で最高なものは宗祇の連歌となるまろ。それが、何年か続くまろ。 また、連歌の延長として、大阪で自由奔放な談林俳諧が流行するまろ。
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そして、江戸時代になると、その談林俳諧がだんだんあきられてきたまろ。そこで、活躍したのが、松尾芭蕉まろ。芭蕉は連歌の発句を独立させた俳句をつくりあげたまろ。そして、芭蕉の俳句は最高のものとされていくまろ。
☆そして、明治30年、日本の詩歌を変えた人は島崎藤村で、藤村の第一詩集「若菜集」まろ。この、新鮮で青春な情感は近代日本の青春の歌声でもあったまろ。
☆それをさらに今の近代の詩っぽくした人が萩原朔太郎だまろ。朔太郎は近代詩のもっとも高度な自由詩の完成者だまろ。朔太郎は、第一詩集「月に吠える」で言葉を、意味ではなく、感覚でストレートにあらわしたまろ。 |