楼蘭の歴史
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楼蘭の歴史



紀元前
紀元後


紀元前

楼蘭王国建国がいつ頃なのか、ということは不明である。
分かっていることは、紀元前176年、匈奴から漢に送られた書簡の中に、楼蘭の名が記されている事である。そこでは楼蘭を含む30ヶ国近くが匈奴の支配下に置かれたことが記されていた。この時、楼蘭の名は歴史に初めて登場した。

その後、楼蘭はしばしば匈奴や漢の支配下に置かれ、前77年には漢によって国王が殺害されるという事件が起きた。この事件をきっかけに国号は楼蘭からぜん善に変わり、楼蘭の古王国は事実上滅亡した
漢によって国王が殺された後、次王には幼い頃から漢の人質として漢で暮らしていた王子が就いた。王子は父より漢の味方にまわっており、漢が王を殺害するきっかけとなった楼蘭の不穏な動きを漢に告げたのも彼だったらしい。
前1世紀頃の楼蘭は、1570戸1万4100人の住民が暮らしており、当時の諸都市に比べると中程度の規模であったと伝えられる。
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紀元後

紀元後1世紀頃から楼蘭は匈奴・後漢・ヤルカンドなどの干渉を受たが、一方で且末小宛精絶戎盧など南方の諸都市を併合。ぜん善王国はノプ・ノール沿岸からチャドータに至る広大な土地を支配下にした。
ぜん善王国は、少なくともその後4世紀末までは領地を失うことなく栄え続けた。4世紀末期頃のクロライナ(楼蘭)には、小乗仏教徒の国王4000人の仏僧がいたらしい。

だが5世紀以降、ぜん善王国は次々に北魏、吐谷渾、丁零、蠕蠕、高車などの異民族の侵入に遭う。これによって楼蘭は独立国としての立場を失うことになる。

6世紀には、シルクロードに新たな経路が発達したため、従来の経路上の都市であった楼蘭は次第に衰えた。

7世紀頃、ソグド人がクロライナ地方への植民地活動を行ったが、楼蘭復興はならなかった。

こうして楼蘭は、砂漠の中に次第に埋もれていった。
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