広島 長崎
被爆直後 住宅の復興
広島市の復興は被爆直後に救援のために入ってきた暁部隊を中心としたとした救護活動から始まりました。負傷者の収容・治療はもちろん、たくさんある死体の処理も被爆後4・5日間でほとんど終了しました。また、爆風や熱線によってぐちゃぐちゃになった道路も救援物資を積んだトラックが走れるようきれいにされました。 爆心地である浦上の復興は遅れがちでした。簡単な住宅地が建てられたのは、1946年後半でした。市営の住宅が建ち始めたのは、さらにその後です。翌年(1947年)になってから、市営の住宅の建設が始まったのです。

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市民が帰ってくる(9月)
被爆して1ヶ月がたった9月。市の周辺にぽつぽつとあった病院や学校などの臨時負傷者収容所もすこしづつ落ち着いてきました。原爆投下後、市内から遠ざかっていた生き残りの市民が1人、また1人と帰って来て,焼跡に焼けトタン板で囲った小屋(掘っ立て小屋といいます)を建てて生活を再開しました。でも、被爆1ヵ月後とはいえ勤めていた会社や通っていた学校も焼けてしまい、生活は大変でした。そして、いつ発病するかも分からない放射線による後遺症の不安の中での生活だったのです。そんな状態であったにもかかわらず9月の中旬、台風が訪れました。大雨と暴風により、焼け跡にあったほこりやススは流れました。しかし、全面水びたしになってしまい、防空壕や小屋に住んでいた人々は寝る所を失ったり、少ない持ち物を失ったりと不幸に見舞われた人も少なくなかったのです。広島に住むことを諦めてふたたび遠くの村々へ帰って行った人もかなりいました。

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自然の再生
台風が過ぎてしまうと急に秋らしくなり晴れの日が続くようになりました。焼け跡のあちこちに草の芽が吹き出しはじまたのです。それは鉄道草(ヒメムカシヨモギ)と呼ばれている草で、人の背くらいにまで伸びたのです。これを使ってだんごを作り、焼け残った江波などで開かれておいた闇市で売られました。しかし、このだんごはあまりおいしくありませんでしたが、空腹には勝てず食べて日々をしのぎました。原子爆弾爆発とともに放射能がまかれ、さらに黒い雨が降った広島には70年間動物・植物は育たないという外国からの通信が伝えられていました。しかし焼け跡一面に草がつぎつぎと生えはじめたのを見て「生きることができる」という喜びを人々は感じました。

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子ども達 戦災孤児
9月中ごろに広島から遠く離れたところに疎開していた小学生が帰って来ました。先生達は鉄筋コンクリートの骨組みが焼け残った建物で授業を再開しました。しかし焼け残った建物が少ないため、野外の青空教室も多かったのです。教科書やノート、筆記用具が無く食べるものにも困る生活では勉強も十分にできませんでした。帰って来た小学生の多くが両親や兄弟を失い、家も焼けてしまっていました。原爆によって孤児となった子は遠くの親類へあずけられたり、養子などになっていく子もあったのです。 多くの被爆した市民は家族の何人かを亡くしていました。また、家族を失った人も多かったのです。原爆被爆の時に父・母を亡くしてしまい、子供だけで生活しなければならなくなった子供もいました。また、原爆投下の時に疎開していて家族を失ってしまった子供もいます。孤児になってしまった子供のうち施設に入ったり親戚に引き取られた子供もいました。しかし、このような施設には入れなかったり、親戚がいなかったりして保護を受けることが出来なかった子供は路上生活者として生きていったのでした。

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被爆一年後

被爆して1年後(昭和21年)の夏には焼かれなかった地域(段原・仁保・宇品・己斐・庚午・草津三篠本町四丁目・大芝など)は被爆時に逃げてきた被爆者や中国・朝鮮などからの海外引揚者により人口が増加しました。いろいろな商店が建ちはじめていましたが、完全に焼けた地域(広島市中心部)は広島駅前から的場町付近・横川・己斐付近の闇市を営んでいる場所以外は爆心地に近い地域ほど焼け跡のままの空地が多く鉄道草が青々とわがもの顔に生い茂っているばかりでした。生き残った人々は8月6日、「平和復興祭」をおこなって原爆犠牲者の霊を慰め、復興を誓いました。


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今にいたる平和記念式典 平和記念式典まで
昭和22年8月6日に慈仙寺の鼻(現在の平和記念公園内)の広場で新しく作った木造の平和塔を中心に平和祭(今の平和記念式典)が行われました。黙とうのあと、平和の鐘を打ち鳴しました。浜井市長が壇上に立って初めて「平和宜言」を全世界に向かって訴えました。その時の宣言は(全部載せることができませんが)『この恐るべき兵器は、永久平和の必然性と真実性とを確認せしめる“思想革命”を将来せしめた。すなわち,これによって,原子力をもって争う世界戦争は,人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を,世界の人々に明白に認識せしめたからである。これこそ絶対平和の創造であり,新しい人生と世界の誕生を物語るものでなくてはならない』と市長自身が被爆したという体験によって堂々と考えをのべました。 それから毎年の平和記念式典で出されていく平和宜言の世界の反響は大きく、現在も広島と同じ考えの人のはげましや賛成の言葉が市役所にたくさん寄せられています。 原爆投下から1年たった昭和21年8月9日に原爆が投下された中心の広場で午前10時から初めての戦災死没者慰霊祭が原爆で家族や親戚を亡くした人々によって行われました。翌年昭和22年には、長崎戦災者連盟が中心になって原爆殉職者参会法要忌が行われました。昭和23年には長崎市が中心となっておこない、この時に初めて大橋市長が「平和宣言」を発表したのです。この年から長崎市は、毎年8月9日に慰霊祭が行われていきました。現在の「原爆犠牲者法要・平和記念式典」が始まったのは昭和27年からです。
このような過程を経て、広島・長崎は世界に平和を訴えるようになったのです。

参考文献
題名 ナガサキは語りつぐ長崎原爆戦災詩
編集 長崎市
発行 1991年7月10日第1版
監修 長崎国際文化館
題名 原爆災害ヒロシマナガサキ
編集 広島市長崎市原爆災害詩編集委員会
発行 1985年7月30日 第1版

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