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『パンセ』と人間 「人間は自然のなかで、最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は人間を殺すものより一層高貴であろう。なぜなら、人間は自分の死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙は何も知らない。それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存在する」 上記は有名なパスカルの著「パンセ」の一部です。ここからも分かるように、パスカルは人間の尊厳を「考えること」の中に在るとしました。確かにあらゆる動物の中でこれほど多彩な感情表現と論理的な理性とを持つものは人間しかいないでしょう。人間は常に自分達がより良く生きるために、いろいろなことを考えてきました。哲学もその結果生まれた学問です。 「パンセ」にあるように、人間は非常に弱くてもろい存在です。大自然の前ではほんの少しの風でなぎ倒されてしまう一本の弱々しい葦に過ぎないのです。しかし、人間は考えることが出来ます。これこそが最も弱い私達人間に牙や爪の代わりに与えられたすばらしい力なのです。しかし、悲しいことに、この力は悪用すると最悪の武器へと変貌してしまいます。 人間は、自然科学の知識を応用することによって、様々な物質を発見し、便利な道具や機械を発明し、文明を発展させてきました。しかしながら、このような科学・技術の発達が、私達現代人の生活に暗い影を落としていることも事実です。自動車の大量使用による自然環境の破壊や大気汚染、遺伝子治療や脳死の問題など、環境学的にも倫理的にも様々な難しい問題が起こっています。せっかく人間に与えられた「考える」という力が、逆に科学・技術の面で様々な問題を引き起こしているのです。 科学・技術が、それだけで一人歩きするのはもちろん危険ですし、社会の中で悪用される可能性が常にあります。科学者の中には、自分の知的好奇心を満たそうとして研究を進めたまではいいが、その結果が社会にどう反映するかを考えないという人もいます。この点から、科学者の社会的責任というものが近年叫ばれてきています。また、科学・技術が社会の中でどのように使われるかは、特に社会的分析が必要な点でもあります。そして、このようなところにこそ、人間の考える力が生かされるべきなのです。 確かに人間はその知恵をもって自分達の生活をより良くすることに成功しました。しかし今人間はその知恵をもって世界を滅ぼそうとしています。私達は、今一度考えを巡らせ、より良い生き方、自然と共存した生き方を探らねばなりません。さもなければ、所詮自然界で最も弱い一本の葦に過ぎない私達人間はたちまち根元から折れてしまうでしょう。 人間は考えるという力を持っており、自分が死ぬことを知っている。だからこそ人間の尊厳は考えることの中にあり、宇宙が人間を押しつぶしたとしても宇宙より一層高貴な存在でいられると「パンセ」は言っています。しかし今人間は、自分が死ぬことを知っていながら自分で自分を押しつぶそうとしています。このような科学的思考の暴走を止めるものは哲学的・倫理的思考です。どのような科学・技術が人類の幸福に役立つかを考える上で、哲学的な人生観や哲学的自然観は欠かせないものです。科学・技術と、その暴走を食い止める哲学。この両者が共存してはじめて人類の明るい未来は切り開かれます。そして、この両者をうまく共存させた新しい社会を切り開くことこそが、私達が「考える葦」として生まれてきた意味ではないでしょうか。 |
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