BY 「LITTLE EDEN」様全体の考察
表紙>>目次>>
銀河鉄道研究トップ>>

苹果が
意味するもの


■苹果が意味するものについて

項目(クリックするとその考察を見ることができます)
 
 ■黒い丘〜現実世界と銀河鉄道の世界〜
 ■北十字〜死に向かうということ〜
 ■青年たち〜肯定的な死〜
 ■燈台看守〜死後の世界〜

苹果がどのような状況で、どのように用いられているのか。意識して読むことで、銀河鉄道の夜という物語を構成している要素との関係が見えてくるだろう。苹果の捉え方は物語が意図するものにつながっていく。賢治はなぜ苹果をそれぞれの場面で登場させるのか、個々の場面を検証し、苹果が持つ意味について考察していきたい。


黒い丘〜現実世界と銀河鉄道の世界〜

第四次稿 第五章天気輪の柱より

そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしていると考えますと、ジョバンニは、もう何とも云えずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。

 黒い丘を境に、ジョバンニは現実世界(三次空間)から銀河鉄道の世界(幻想第四次)へ移行する。黒い丘は銀河鉄道の世界の縮図でもある(cf.背景描写の細やかさ)。黒い銀河に輝く白い天の川を連想させる道、青く光る虫や葉、などの景色が印象的である。賢治は黒い丘で銀河鉄道の世界に不可欠な描写を、現実世界に存在するものを使いながら巧みに登場させている。
 苹果はジョバンニが初めて汽車のことを考える場面で登場する。苹果と汽車が同時に初めて登場することは単なる偶然ではないだろう。ここで「苹果を剥いたり」することのみが、具体的な行ためであることに注目したい。他の「たくさんの旅人、わらったり、いろいろな風にしている」という風に抽象的な描写の中に存在する苹果は読者に鮮明な印象を与える。銀河鉄道の世界を印象付けるこの章の中で苹果を登場させることは、銀河鉄道の世界と苹果の世界とのつながりを浮き彫りにしている。
 現実世界で苹果と関連のある描写は見られない。苹果は汽車の中でのみ登場する。銀河鉄道の中でカムパネルラの頬は「まるで熟した苹果のあかしのように」うつくしくかがやき、青年たちが登場する直前に列車の中で苹果の匂がした、という風に他の苹果が登場する場面も同様である。苹果は現実世界と銀河鉄道の世界の境に位置する存在でありながら、銀河鉄道の世界の要素のみを持っているのである。


北十字〜死に向かうということ〜

第四次稿 第七章北十字とプリオシン海岸より
「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の数珠をかけたり、どの人もつつましく指を組み合せて、そっちに祈っているのでした。思わず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。


 この場面の苹果はカムパネルラの頬が赤くかがやいていたことを読者に伝える効果がある。だが、賢治は直接色を表記するのではなく、苹果を用いた描写を加えた。苹果のもつ意味を探るためにはカムパネルラの頬がかがやいた理由を考える必要がある。
 白い十字架を見る前に、「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」「おっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする」と口にし、「誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」」と結論付けたカムパネルラは、なにかほんとうに決心しているようであった。ここでは、罪が許されるかどうかということや、誰かのために身をささげる献身の精神を見ることができる。これらは神の教えに通じるところがある。一方この場面でジョバンニは、カムパネルラの「おっかさん」という言葉に注意を向けただけで罪やほんとうの幸といった事柄には一度も触れていない。
 俄かに車のなかがぱっと白く明るくなリ、ジョバンニたちは銀河の流れの真ん中に金いろの円光をいただいた白い十字架が立っているのを見る。
十字架、「ハルレヤ、ハルレヤ。」という声、黒いバイブル、水晶の数珠、そしてつつましく指を組み合わせて祈る行ためなどの言葉から、この場面では宗教色(特にキリスト教)が非常に強く現れていることがわかる。また、彼の頬がうつくしくかがやいて見えたと表現することで、それらの思想がカムパネルラに良い影響を及ぼしていることを示している。
 苹果には献身、ほんとうの幸を背景にもつ死を思わせるイメージがある。カムパネルラは献身という精神や宗教を超えた"ほんとうの幸"という思想について考えていた。カムパネルラの頬を「まるで熟した苹果のあかし」と表現することは、
苹果が宗教や神などの天上へ向かう精神、と結びつきがあることを示しているのである。


青年たち〜肯定的な死〜

 現実世界と銀河鉄道の世界の境に登場する苹果は他にも見ることができる。タダシ、青年、かおる子の三人が銀河鉄道にやってくる場面である。

第四次稿 第九章ジョバンニの切符(前)より
「何だか苹果の匂がする。僕いま苹果のこと考えたためだろうか。」カムパネルラが不思議そうにあたりを見まわしました。
「ほんとうに苹果の匂だよ。それから野茨の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思いました。
 そしたら俄かにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたような顔をしてがたがたふるえてはだしで立っていました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれているけやきの木のような姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。


 苹果の匂にジョバンニが気付くと、青年たちが現れていた。ここで青年たちとは何者かを考えてみよう。
 青年たちは死者である。青年の「あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは神さまに召されているのです。」「わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。」「私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。」という言葉から、青年は死を肯定的に、天上へ行くことだと考えていることがわかる。
 青年は船が沈んだとき、自分の義務とは何か、姉弟のほんとうの幸福のために自分がどうするべきかなど、様々な選択肢を頭に描いていた。青年は考えた末三人そろって天井へ行く道を選んだ。彼は自ら死の道を行くことを決心したのである。

 苹果の匂いは現実の世界と銀河鉄道の世界の境に存在する。それは生と死の世界と言い換えることができる。苹果の匂いは死者である青年たちがまとっていた。青年のもつ死のイメージは神さまに召されて天上へ行くことであった。銀河鉄道の夜に登場する苹果には天上のイメージが含まれているのである。
 

燈台看守〜死後の世界〜

第四次稿 第九章ジョバンニの切符(中)より
「いかがですか。こういう苹果はおはじめてでしょう。」向うの席の燈台看守がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないように両手で膝の上にかかえていました。
―中略―
「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のように殻もないし十倍も大きくて匂もいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」
 にわかに男の子がぱっちり眼をあいて云いました。
「ああぼくいまお母さんの夢をみていたよ。お母さんがね立派な戸棚や本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか云ったら眼がさめちゃった。ああここさっきの汽車のなかだねえ。」
「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云いました。
「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」
 姉はわらって眼をさましまぶしそうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰べるようにもうそれを喰べていました、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのような形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。
 二人はりんごを大切にポケットにしまいました。

 燈台看守は苹果を「かすがすこしもない」「いいかおりになってちらけてしまう」と説明する。銀河鉄道の中で剥いた苹果の皮は「すうっと、灰いろに光って蒸発してしまう」。これらは賢治特有の苹果の描写である。
 賢治は自分が考える死のあり方を苹果になぞらえて物語に登場させたのではないだろうか。「あなたがたのいらっしゃる方」とは青年たちが向かう天上のことを指している。苹果の匂をまとった青年は銀河鉄道に乗った頃、天上のことを「ほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。」と表現していた。また、青年は天上へ行くことを自ら望んでいた。これは青年の言葉であると同時に賢治の言葉でもある。銀河鉄道の夜において、否定的な死の表現は登場しない。死に関連する場面の描写は美しいものであふれている。
 
天上の様子は賢治が死を肯定的に考えていることを示している。天上の様子を表す場面では苹果がよく登場する。苹果は肯定的な死のイメージを鮮やかに表現する役割を果たしているのである。


 ⇒本文をチェックする

 ⇒この考察に質問・意見を投稿する

 ⇒この考察に関して寄せられた質問・意見を読む

考察のトップへ // 目次へ//一番上へ戻る