BY 「LITTLE EDEN」様全体の考察
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銀河鉄道の夜にみる
宗教観


■銀河鉄道の夜にみる宗教観について

項目(クリックするとその考察を見ることができます)
 
 ■献身の思想
 ■銀河鉄道の多宗教
 ■宗教の違いによる軋轢
 ■賢治の宗教信仰


献身の思想

 賢治の家は元々浄土真宗に属していたが、賢治は父の宗派に逆らい、24歳の時に日蓮宗(法華経)に改宗した。初稿ができ上がったのは1924年付近、賢治が28歳の時であり、銀河鉄道の夜は賢治の宗教の思想にも多分に影響されている。ここでは、賢治の宗教と、物語に出てくる宗教や思想を併せて考察していきたい。
 まず、銀河鉄道の夜には、自分を犠牲にして他人を助けるという献身の思想が物語に反映されている部分が多く見られる点に注目してみよう。

 第四次稿 第九章ジョバンニの切符(中)より かおる子、タダシ、青年の献身
「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、-略-船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向うへ行ってしまいました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二文字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちました。もう渦に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨年没くなられました。ええボートはきっと助かったにちがいありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれていましたから。」
 そこらから小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。

 第四次稿 第九章ジョバンニの切符(後)より カムパネルラの献身
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」
「どうして、いつ。」
「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」

 第四次稿 第九章ジョバンニの切符(後)より 蝎の献身
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
 ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

→物語を読む

 この3つの話は、意識的ではないにしろ、結果として自分を犠牲にして他人を助けたストーリーとなっている。これらをまとめてみると、

・9章の蝎の火の話→自分の体が真っ赤なうつくしい火となった。
・9章のかおる子、タダシ、黒服の青年→氷山で船が沈む時、他の助かった人々の身代わりに亡くなった。
・カムパネルラが川に落ちてザネリを助け、代わりに溺れて死んだ。

という事になる。

これら、献身の教えは、宗教の中に見ることができる。仏教では、法隆寺の玉虫厨子に描かれている、釈迦の前生物語の一つ"捨身与虎之図"、釈迦が飢えた虎に自分の体を餌として与えた話が有名な話だろう。また、キリスト教は、キリストが人類の罪を一身に受けて十字架にかかった事からも解るように、献身の思想が下敷きとなっている。賢治がこれら宗教的な思想から影響を受けて、物語の中の献身を描いたのではないかと考えられる。


■銀河鉄道の多宗教

 銀河鉄道の乗客は、様々な宗教に属しているようである。文章中の、宗教に関係がある可能性が高い物や動作などを抜き出してみよう。

七章
・「白い十字架」 星座、キリスト教
・「乗客の言葉 "ハルレヤ、ハルレヤ。"」 キリスト教
・「黒いバイブル」 キリスト教
・「水晶の数珠」 仏教
・「カトリック風の尼さん」 キリスト教

九章
・「緑の切符(ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したもの)」 仏教?
・「新世界交響楽」 キリスト教
・「青年の動作、"両手を組みました”」 キリスト教
・「十字架」 キリスト教
・「乗客の言葉 "ハルレヤハルレヤ"」 キリスト教
・「神々しい白いきものの人」 不明


 これらはキリスト教に関する言葉が圧倒的に多く、また、登場人物の名前も欧米のものであることから、物語は意識的にキリスト教の影響を色濃く受けて書かれている事がわかる。(→当サイト内の銀河鉄道大辞典 言葉集 宗教の世界を参考) また、かおる子、タダシ、黒服の青年の3人に代表されるの多くは、バイブルを持っていたり、ハレルヤ、ハレルヤと言うことからもわかるように、キリスト教信者である。
 しかし、この物語の主人公であるジョバンニは、九章でかおる子と神様について意見が食い違っている事から、キリスト教信者ではない事がわかる。乗客は他の宗教にも比較的寛大であり、キリスト教信者ではないジョバンニも十字架に向かって祈っている。一見彼らは宗教が違っても問題無く付き合っているようではあるが、しかし、宗教が違うことで根本的に解りあえないという側面も持っている。それがよく書き表されているのは、九章でのかおる子達とジョバンニの、神様に対する論争である。


■宗教の違いによる軋轢

 かおる子達もカムパネルラも、自分が犠牲になり他人を助けるという尊い行いをしたにもかかわらず、なぜ降りた駅が違ったのだろうか?どちらも天上を目指しているという共通点があるが、かおる子達が天上に行くためにサウザンクロスで銀河鉄道を降りた後も、カムパネルラとジョバンニはしばらく銀河鉄道に乗っている。そしてカムパネルラは"窓の遠くに見えるきれいな野原"を天上だと信じ、いなくなった。私は、降りる駅が違う理由は、カムパネルラとかおる子たちの宗教が違ったからではないかと思う。キリスト教の最終目的は「永遠の生」であり、仏教の最終目的は輪廻転生からの脱却、つまり「永遠の死」である。この二つの思想は、目的が違うためにどうしても相容れない。かおる子たちはクリスチャンであることは前で述べた。彼女達はサザンクロス(南十字星)で降りている。カムパネルラの宗教はわからないが、ジョバンニとカムパネルラは宗教を超えた"ほんとうの幸"という思想を持っており、その考え方の違いや神様に対する見方の違いから、降りる駅が違うという結果になったのではないだろうか。

ほんとうの幸についての考察を読む


 また、宗教、言い換えれば思想の違いによる軋轢は、かおる子達とジョバンニの神様に関する言い争いからもわかる。


第九章 ジョバンニの切符(後)より ジョバンニとかおる子の神様論争
「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。
→物語を読む

 この文章を見れば、かおる子達とジョバンニの会話が完全にすれ違っている事が明らかだろう。ジョバンニとかおる子達の言う"神様"は、根本的に意味が違うようだ。かおる子の言う"神様"とは、キリストの事であると考えられる。それに対して、ジョバンニの言う"神様"とはもっと抽象的なもので、"ほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです"とある。"神様"はどういうものかわからないが、たった一人の神様は確かに存在していると考えている。そして、その"神様"は、ほんとうの幸を叶えてくれる人なのではないだろうか。そして、"ほんとうの神様"とは、賢治自身の"神様"に対する考え方を反映しているのではないかと思う。つまり、"ほんとうの幸"を求める賢治は、様々な宗教の中で"ほんとうの幸"を叶える方法を探したが見つからず、独自の考え方の中での"ほんとうの幸"を叶えてくれる"神様"を信じ、物語の中に書き表したのではないだろうか。

 第三次稿では、ブルカニロ博士のせりふで、神様に関する記述がある。これは、第四次稿では削除されてしまっているため、第四次稿を書いた時の賢治の心境の変化が起こっている可能性があるが、"神様"について考える上で参考にしてもらいたい。

第三次稿 第九章 ジョバンニの切符(後)より
みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。
→物語を読む

賢治の宗教信仰

<改宗前>
浄土真宗   宗祖:親鸞  本山:西本願寺(東本願寺)  信仰の対象:阿弥陀如来
法然の弟子、親鸞聖人が13世紀のはじめに開いた宗派。阿弥陀信仰は浄土宗と共通だが、念仏が往生を決めるのではなく、すべて仏より賜る絶対他力であるとし、世俗にまみえる在家主義を説いている。

<改宗後>
日蓮宗  宗祖:日蓮  本山:久遠寺  信仰の対象:妙法蓮華経、日蓮聖人
日蓮上人が13世紀中ごろ、「法華経」を絶対的なものであるとして開いた宗派。「南無妙法蓮華経」のお題目をとなえれば仏と一体化できるとしている。


 賢治は仏教信者であったが、他の宗教に興味を持っていた。また、化学にも一種信仰にも似た考えを持っていた。賢治の求める"ほんとうの幸"(cf.ほんとうの幸について)に代表される思想は、一つの宗教を超えたものである。賢治は熱心な法華経信者であったが、特定の宗教に確執する事なく、様々な思想を取り入れて独自の宗教観を持っており、それが昇華されて生み出されたのが銀河鉄道の夜なのである。

ほんとうの幸についての考察を読む

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