発病
忙・過労と粗食による栄養不足により、急性肺炎になる。 この頃からだんだん衰弱が目立つようになり、 1931年にはとうとう両親の家に病臥の身となる。
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発病後の創作活動
1930.10→「まなづるダァリヤ」の校訂が終わる。 1930.11→『文芸プラニング』に詩「遠足許可」等、四篇の詩を発表。 1931.7→『児童文学』第一冊に 童話「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表。 1931.8→「風の又三郎」の執筆進む。 1931.11.3→手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める。 1932.3→『児童文学』第二冊に「グスコーブドリの伝記」を発表。 1931.8→『女性岩手』の創刊号に文語詩「民間薬」、「選挙」を発表。 1931.11→『女性岩手』に「祭日」、「母」を、 『詩人時代』に「客を停める」を発表。 1933.3→『天才人』に童話「朝に就きての童話的構造」を発表。 1933.4→『現代日本詩集』に「郊外」、「県道」を発表。 1933.7→『女性岩手』に「花鳥図譜七月」を発表。 1933.8→童話「ひのきとひなげし」に最終手入れを行う。
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宮沢賢治死去
享年三十八歳で、宮沢賢治は実家にて午後一時半に死去。 明後日にには浄土真宗安浄寺で葬儀を行う。 法名を「真金院三不日賢善男子」といった。 1951年には、身照寺に改宗。 |