モ ヘ ン ジ ョ ・ ダ ロ 古 代 遺 跡 群    

イ ン ダ ス 文 明 発 見 の 地 は   統 治 者 の い な い 農 耕 社 会 だ っ た

インダス川下流のカラチから北に約300キロ、その遺跡は約1.6キロメートル四方の面積がある。

インドにとって様々な発展をもたらしたインダス川、その河口下流域の遺跡は、1921年からにかけて大規模に発掘された。
産出されたのは、4000年以上も前のものだとわかり、そこで初めて、インダス文明というものが明らかになる。

モヘンジョ・ダロは、敷地の西を城砦地区、東を市街地としている。
薄い紫のような茶色のようなレンガで埋め尽くされた様々な大きさの路が格子状に遺跡内を巡る。街路沿いには小さな下水の溝も確認されている。
城砦地区には人々が暮らすための大浴場、見張り台、穀物倉、高僧や高官の家など、市街地に比べて大きめの建物が目立つ。その大浴場は、子孫繁栄を願う儀式の場と考えられている。きちんと水漏れしないようにアスファルトで固められている。
豊富な自らの農作物をしまう穀物倉は、城砦の4分の1の大きさだった。
市街地は、びっしりとレンガでできた民家が立ち並ぶ。
ここでふと考えるのが、モヘンジョ・ダロには神殿や王宮など、権力者の影が見当たらないことだ。
それは、モヘンジョ・ダロは、川の恵みを利用し、自然任せの暮らしをしていたからだとされる。
ではなぜ滅びたのか。今までアーリア人に侵略されたという説が強かったが、今ではインダス川の大洪水で人々がこの地を捨てたのではないかという見方も強まっている。

1980年に登録された。

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