坂下門外の変(1862年)

桜田門外の変の後、大老を失った江戸幕府は幕府の力を何とか盛り返そうと考えました。

幕府老中安藤信正「こうなったら朝廷(公家)と幕府(武士)が手を結び、

諸藩に号令するしかない」

側近「それは具体的にどのような考えなのですか?」

安藤信正「まずは孝明天皇の妹和宮様を上様の奥方に迎えるのです」

側近「えっ!」

安藤信正「そうなれば天皇家と徳川家は親戚同士となり、

幕府に背く者は天皇に背く者となるのです。

これを公武合体という」

側近「それは名案でござる!さっそく天皇にお願いに参りましょう!」

しかし天皇は…

孝明天皇「ならぬ。和宮は有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王との

縁談が決まっておるのだ」

こうして断られてしまいましたが、

幕府は孝明天皇が強い攘夷論者(外国船を日本国内に入れることを許可しない考えの持ち主)

である事を利用して…

幕府「この結婚をお許しくだされば幕府は攘夷に方針を変える事を約束します」

孝明天皇「なんじゃと。では、以前のように外国船を寄せ付けぬと申すのだな?」

幕府「はい。その証拠に幕府は今、軍艦や鉄砲の製造を急いでおります。

軍備が整ったら条約を破棄し、外国船を打ち払うつもりです」

孝明天皇「その約束、必ず守るのだろうな?」

幕府「何事も日本のため。さあ、和宮様をぜひ…」

こうしてついに孝明天皇は将軍家茂と和宮との結婚を許してしまいました。

しかしこうした幕府のやり方に勤王の志士達が黙っているはずがありません。

志士「神をも恐れぬ幕府の謀略な態度…これは政略結婚だ!」

志士「もう許せん!安藤信正を切れ!!」

こうして1862年1月、安藤信正は江戸城の坂下門外で水戸浪士らに襲われ負傷し、

老中の地位を去りました。

これを坂下門外の変といいます。

 

 

寺田屋事件(1862年)

時がたつにつれ、尊上派は公武合体をすすめる幕府の権力まで追い詰めていきました。

これを心配したのが薩摩藩主島津忠義の父・久光です。

島津久光「幕府を無くしてはいけないのだ。わしは公武合体に賛成だ。

幕府を助け、朝廷に協力すればわが藩が政治の中央に乗り出せるチャンスもくる。

わが藩みんなで協力して今の幕府を救うのじゃ!」

側近「それが…」

島津久光「なにっ!わが藩にも過激派の若者がいると!?

いかん、言う事を聞かないものはその場で切れ!!」

そして京都、伏見の寺田屋にて事件は起きました。

薩摩藩藩士「殿の命令だ。悪いが死んでもらう!!」

薩摩藩の急進派志士「なんだと!?我々は同じ藩士ではないか!?」

こうした京都、伏見の寺田屋で倒幕の相談をしていた薩摩藩の急進派志士達が

同じ藩士に討たれた大事件を寺田屋事件といいます。

 

生麦事件・薩英戦争(1862年〜1863年)

事の起こりは島津久光の行列が生麦(神奈川県)に差し掛かったとき、

前をイギリス人が横切った事から始まりました。

島津久光の側近「殿の前を横切るなど言語道断!無礼者め!天誅だ!」

そのイギリス人の一人を切り殺し、二人に重傷を負わせてしまったのです。

これが生麦事件です。

怒ったイギリスは翌年幕府から賠償金を取り、

そのうえ鹿児島に七隻の軍艦を率いてやってきました。

島津久光「外国船など打ち払ってしまえ!!」

そして薩摩はイギリスに果敢に挑みましたが、

世界に誇るイギリス海軍の前には歯も立ちませんでした。

藩士「うわっ!イギリスの海軍は化け物だ!

鹿児島の町も放火で焼かれてしまった!もうどうしたらよいのだ!!」

そんな時、幸い嵐で来てイギリス艦隊は去りました。

これが薩英戦争です。

 

八月十八日の政変(1863年)

朝廷の長州藩を守り役とする攘夷計画進行の動きを警戒した幕府は

密かに会津(福島県)、薩摩などの藩を集め方策を練っていました。

幕府「朝廷の公家達に天皇を動かされたら大変だ」

薩摩「こうなったら長州を宮中から追い出してしまいましょう」

会津「それには宮中の会議で決めてしまおう」

そして1863年8月18日の深夜、御所にて急遽会議を開きました。

幕府「公武合体派の公家と藩主は直ちに集合してください」

そして御所の門はピタリと閉ざされ、会津、薩摩の兵で固められました。

会津「よいか、尊攘派の長州藩や公家の者は中に入れるな」

薩摩「彼らには勿論この会議の事は知らせていない」

そして御所では重要会議が進んでいきました。

御所内で「それでは、会議の結果尊攘派の者は一切朝廷から追放する事に決まりました」

そして翌日、いつもの通り御所に向かった公家や長州藩の者は…

幕府「本日より長州藩及び三条公以下七名の公家はこの京都から立ち去りなさい」

幕府「昨日の会議で決まったのだ。天皇の御命令であるぞ!」

尊攘派の公家「えっ!昨日の会議とは!?」

尊攘派の長州藩士「しまった!幕府にしてやられた!!」

この事件を八月十八日の政変といいます。