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宿院良蔵   平隊士

良三とも称し、丹羽亀山の出身で、文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に出動したものと思われる。元治元年六月の池田屋事変では、土方歳三に属して、屋外の守備につき、褒賞金十五両を賜った。九月の葛山武八郎の切腹に際しては、谷三十郎とともに、頼越人となって光縁寺を訪れている。同年十二月の編成では、井上源三郎の三番組に所属。慶応三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、鳥羽伏見の戦いで、六日に橋本で戦死。あるいは、三日に伏見での戦死ともされる。四十七、八歳とされ、新選組慰霊碑に名を刻む。

 

島田弥一郎   平隊士

天保八年、加賀に生まれる。小野派一刀流剣術を使い、元治元年十月、近藤勇の江戸での隊士募集に応じて上洛したが、十二月の編成に名前はなく、入隊直後に離隊したものと思われる。

 

白原七郎右衛門   平隊士

慶応三年前半に入隊したものと思われ、同年六月の幕臣取立てでは、仮同志ながら、見廻組並御雇の格を受けるが、十二月までに離隊している。

 

清水休左衛門   平隊士

天保九年に生まれる。慶応元年五月、土方歳三の、江戸

での隊士募集に応じて、上洛したが、七月以前に離隊する。

 

柴山徳三郎   平隊士

芝山とも徳太郎とも称す。慶応三年前半に入隊したものと思われ、同年六月の幕臣取立て

では、仮同志ながら、見廻組並御雇の格を受ける。翌年一月鳥羽伏見の戦いを経て、江戸

に帰還後、脱走した。

 

白原七郎右衛門   平隊士

慶応三年前半に入隊したものと思われ、同年六月の幕臣取立てでは、

仮同志ながら、見廻組並御雇の格を受けるが、十二月までに離隊している。

 

鹿内主税   平隊士

慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。

翌年一月の鳥羽伏見の戦い前後に、大阪で脱走した。

 

 

柴岡剛三   平隊士

西岡万助。柴岡とも、剛造、剛蔵とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数とな

る。同年十一月十八日の油小路事件に出動し、その活躍によって、平隊士に列せられたも

のと思われる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、會津戦争で討死した。

西岡は柴岡の誤読であり、剛三を万助に改名した。ものなのか、あるいは、前名なのか、

永倉新八は、万助としている。

 

清水卯吉   平隊士

宇吉とも称す。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦

いを経て、江戸に帰還し、五兵衛新田駐屯から、會津入りして、六月に猪苗代湖南の三代

で作成した名簿では、隊長附をつとめたが、八月の母成峠の戦いに敗れた後、斎藤一らと

會津に残留し、九月に如来堂守備中を襲撃され、戦死したと伝えられる。

 

白戸友衛

慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て江戸に

帰還し、五兵衛新田駐屯後、會津で大炮護衛の役につき、六月に、猪苗代湖南の三代で、

作成された名簿では、大砲警備隊下役とある。八月の母成峠の戦いに敗れたのち、蝦夷に

渡航し、箱館戦争で戦死した。

 

白石五六郎

しらいし ごろくろう

平隊士

甲陽鎮撫隊として出陣し、慶応四年三月六日に勝沼の戦いで死亡している。

隊士ともされるが、佐藤彦五郎の率いた春日隊に所属していたものと思われる。

 

柴田彦三郎

しばた ひこさぶろう

平隊士

天保十年、江戸に生まれる。喜三郎、勝三郎とも称す。名を忠興。甲源一刀流剣術を使い、

元治元年十月に、近藤勇の江戸での隊士募集に応じて上洛し、十二月の編成では、尾形俊

太郎の五番組に所属した。慶応ニ年六月に、一橋家臣原口某と市中で金策を行なって脱走

したが、人相書を用意した近藤芳助らに追われ、出石の宿で郡役人に捕らえられて、身柄

を引き渡された。そのまま、屯所に連行され、同月二十三日に切腹となる。

行年二十八歳。墓は光縁寺にある。

 

志村武蔵

しむら たけぞう

伍長、大砲差図役

天保四年、美作津山、相模の出身ともいわれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での隊士

募集に応じて上洛し、慶応三年六月の幕府取立ての儀では平士として、見廻組御雇の格を

受け、伍長を務める。翌年の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還し、會津では大砲差図役

となる。八月の母成峠の戦いののちに山口二郎らと會津に残留し、九月五日に如来堂守備

中を襲撃されて死亡とされるものの脱出して、東京で病死した。

 

司馬良作

しば りょうさく

平隊士

天保十三年、奥州仙台に生まれる。元治元年五月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて

上洛した。西村兼文の「新撰組始末記」には、慶応元年夏の編成で「斯波」という隊士が、

文学師範になったとしているが、その直前の入隊者に「斯波雄蔵」がいたとしていること

から、文学師範となったのは、斯波雄蔵だったと考えられる。ところが、そのころの入隊

者には、斯波緑之助と司馬良作がいるだけで、斯波雄蔵の在隊は、確認できない。したが

って、緑之助か良作が雄蔵ということになるのだが、緑之助は、慶応三年六月幕臣取立て

の際にも、同名で記録されており、良作が雄蔵であったことになる。良作もしくは、雄蔵

の名前は、幕臣取立ての名簿に記録されておらず、それまでに、離隊したことになるが、

「新撰組始末記」には「斯波良蔵ハ洋行ニ志ザス所アリテ修行スル暇ヲ乞ヒテ退去ス」と

斯波良蔵という隊士の離隊を記録している。これが良作の事と思われ、良作、良蔵、雄蔵

の順に並べると、彼らが同一人物であった可能性が理解できる。

 

斯波緑之介

しば ろくのすけ

平隊士

天保十一年、紀州和歌山で生まれる。慶応元年五月、土方歳三の江戸での、隊士募集に

隊士募集に応じて上洛した。元僧侶で、幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格

を受けている。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還後脱走した。一月四日の

淀の戦いで、戦死したともされている。

 

塩沢麟次郎

しおざわ りんじろう

平隊士

天保十二年、甲州甲府に生まれる。小野派一刀流剣術、荒木流裏剣術、

杠秤棒術を使った。慶応元年五月、土方歳三の江戸で、隊士募集に応じ

て上洛するが、同三年六月以前に離隊している。

 

篠崎信八郎

しのざき しんぱちろう

平隊士

弘化二年、常陸松川に生まれる。信八、佐原太郎、平利秀とも称す。慶応元年五月、土方

歳三の江戸での隊士募集に応じて上洛した。慶応三年三月、伊東甲子太郎らが、御陵衛士

として新選組から分離した際には同行せず、六月の幕臣取立てで、平士として、見廻組並

御雇の格を受けたのち、脱走して伊東らに合流し、佐原太郎を名乗る。同年十一月、油小

路事件の際は、伊勢出張中だった。十二月には、阿部十郎らと近藤の妾宅に、沖田総司を

襲ったが留守であり、その日、京都から伏見に向かう、近藤勇を富山らと襲撃して重傷を

負わせる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いがはじまると、御陵衛士の残党と、綾小路俊実に従

って挙兵して、相楽総三らと赤報隊を結成。その後、独走する相楽たちと別れて、帰京し、

投獄されたのちに奥州を転戦した。慶応四年九月一日に死亡し、墓は京都市東山区泉桶寺。

山内町の戒光寺にあって墓碑には「傷於下寺町於牢死」とされるものの、篠原泰之進は、

七月五日に、五条橋付近で、田口次郎が刺殺したとし、安部十郎は、中西登が殺害したと

している。行年、二十四歳。

 

島田幸之介

しまだ こうのすけ

平隊士

越後の出身で、慶応元年七月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊し、同三年六月

の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、十二月以前に離隊した。

 

小路平三郎

しょうじ へいさぶろう

平隊士

若狭小浜の出身で、慶応元年七月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊し、同年七

月には、中西登らと、京都潜入の長州藩士石津茂一郎を捕らえる。同三年六月以前に病気

の為、離隊し、故郷に帰る。その後、罪を犯して、獄中で病死する。

 

白井鷹之進

しらい たかのしん

平隊士

天保十年、奥州津軽で生まれる。留田流剣術、源家古伝馬術を使う。慶応元年五月、土方

歳三の江戸での、隊士募集に応じて上洛するが、同三年六月以前に離隊した。

渋沢吉之助

しぶさわ きちのすけ

平隊士

明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に十

数名の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。