和田六郎 平隊士
慶応三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受け
ているが、おそらくは、前年中の入隊と思われる。十二月までに離隊した。
和田屋和三郎
わだや わさぶろう
平隊士
大鳥圭介は、明治二年七月四日の「獄中日記」に「元新選組の和田屋和三郎、此人元新選
組なりしが、昨春隊を辞し市人となり山谷にて渡世せしに、他の新選組の人捕はれしに由
り、其連累にて昨冬入牢せし由」と記す。藤原和三郎のことと思われる。
若田栄吉
わかだ えいきち
平隊士
旗本若田重三郎義章の三男として、嘉永四年一月二日に江戸で生まれ、麻布古川町に住居
していた。新選組入隊の時期、場所ともに不明だが、明治二年四月ごろの編成で、第一分
隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏している。弘前の薬王院に収容ののち、再び、
弁天台場に送られ、三年四月に静岡藩に引き渡され、放免となった。大正八年六月十八日、
六十九歳で死去する。
和田隼人
わだ はやと
平隊士
文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に出動した
ものと思われるが、池田屋事変以前に離隊している。
和田重郎
わだ じゅうろう
平隊士
十郎とも称す。若狭の出身で、元治元年十二月までの、京坂における隊士募集に応じて、
入隊し、同月の編成では、伊東甲子太郎の二番組に所属した。慶応三年六月の幕臣取立て
では、平士として、見廻組並御雇の格を受けるが、翌年一月の鳥羽伏見の戦いで、四日に
伏見で戦死する。新選組慰霊碑に刻む。
輪堂貞三
わどう ていぞう
平隊士
伊予西条の出身で、元治元年十二月までの、京坂における隊士募集に応じて入隊し、
同月の編成では、原田左之助の小荷駄雑具の組に所属しているが、慶応元年七月まで
には、離隊している。
和高虎之助
わだか とらのすけ
平隊士
和高小刀太とは親子もしくは兄弟と思われる。慶応三年六月以降に入隊し、局長附人数と
なる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還し、會津戦争に参戦した。六月に猪苗
代湖南の三代で、作成された名簿には、隊長附とあるが、八月の母成峠の戦いに敗れて、
仙台で降伏する。
渡辺市造
わたなべ いちぞう
平隊士
市蔵とも称す。武州多摩郡牟礼村の出身で、尾田辺七郎左衛門の長男として生まれる。
慶応三年六月以降に入隊し、両長召抱人となる。同年十二月に京都で暇を与えられて離
隊した。維新後は、埼玉県川越に住み、明治四十一年四月八日に死亡し、墓は、川越市
宮元町の真行寺。