新選組副長 土方 歳三
名前 土方歳三義豊
生まれ 武蔵国多摩郡石田村の豪農の家の末弟に生まれた。天保6年(1835)5月5日
〜明治2年(1869)5月11日。
家族 父、土方義諄は歳三が生まれる前に結核のため他界。母は恵津。12歳年上の
姉周も結核のため隔離されていた。23歳年上の長兄為次郎は盲目であったの
で、次男喜六が家を継ぐ。4歳年上の姉ノブは、土方のことを親ほどに可愛が
った。三兄の大作は糟谷という医家に養子に行き、糟谷良循と名乗る。
剣技 天然理心流。家伝の秘薬「石田散薬」を行商に出ながら、剣術道具を担ぎ独学
で剣を学び、 姉のぶが嫁いだ日野宿寄場名主佐藤彦五郎宅に身を置いていた。
彼の剣は癖があるにもかかわらずかなり強かったと言われている。彦五郎は剣
術に熱心で自宅に道場を持っており、天然理心流の門人でもあった。
土方 歳三
0才の時と16才の時に、上野に奉公に出されたがいずれも長く続いてはいない。
見かけは優しげで綺麗な少年だったから、呉服屋の店先に座らせておけば様になると思われていたのかもしれないが見かけとはうらはらにやんちゃな少年だった。
文久3年(1863)幕府の浪士隊結成に試衛館の仲間近藤勇らと共に参加上洛し、のち近藤を助けて新選組を組織した。京都守護職会津中将お預りとして不逞浪士の取り調べ、市中見廻りを行なった。
慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦に敗れ、近藤勇が流山で捕らえられ板橋で斬首された後、新選組の生き残りを率いた土方歳三は、北関東、会津と転戦した。宇都宮の戦いで手負い、会津の清水屋旅館で養生し全快したが、鶴ヶ城籠城戦では、東の猪苗代方面にあって入城かなわず。最後は箱館五稜郭まで行き、徹底抗戦した。やがて、幕府軍の最後の砦五稜郭も降伏する気配が濃くなったとき、一人敵地に飛び込んで、腹部に銃弾を受ける。1869年5月11日激しかった34年の生涯を戦死という形で閉じる。