新選組局長 近藤勇
名前 近藤勇昌宜。幼名は勝五郎、勝太。字は東州、外史。変名は近藤内蔵助、近田
勇平、大久保大和である。
生まれ 天保5年(1834)10月9日に武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市)で、農
家・宮川久次郎の三男として生まれる。
家族 父は久次郎。母はみよ。長兄は音次郎。次兄は久米次郎(久米蔵)。姉がいた
が、幼くして死んだ。母も、勝太が4〜5歳の頃に亡くなっている。
剣技 15歳の時に、天然理心流三代目近藤周斎にその人柄と腕を見込まれて、養子
に望まれた。その後、江戸小石川の道場「試衛館」にて剣を学び、やがては若
先生として剣を教える立場になっていった。文久元年(1861)8月、26歳の時
に天然理心流四代目を襲名、名実ともに理心流宗家を継いだ。
最期 鳥羽・伏見の戦いに破れ(近藤は参加してないが)江戸退却後、甲陽鎮撫隊と
して甲州へ出兵するも、官軍の前にあっけなく敗退。
新選組を率いて会津へ向かおうとする土方の説得にも応じず、板橋にあった官
軍総督府へ出頭するが、正体を見破られ斬首の刑に処される。享年35歳であ
った。
新選組局長
文久3年(1863)2月、28歳の時に試衛館一党で浪士隊に応募、京に上り清河八郎と分裂した後、会津藩の元で新選組を結成。局長を勤める。
近藤勇のいろいろ
いかつい顔の人ではあったが、笑うと両頬にエクボが出来た。
少年の頃は大層な悪ガキだったようだが、年下の子は絶対にいじめなかった。
軍書好きの父にいろいろな本を読んでもらって育った。中でも「三国志」の関羽が好きだったらしい。