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新撰組一番隊組長  沖田総司

幕末京都に一閃した新撰組の天才剣士

 

名前  沖田総司  幼名は惣次郎(20歳ごろに改める)

生まれ 天保13年(1842)、陸奥白河藩士沖田勝次郎の長男として、白河藩江戸下屋敷に生まれる。

家族  母親は総司が幼少のころに死亡。父親の勝次郎もまた、弘化2年(1845)に死亡。総司には2人の姉がおり、

     長姉のみつは、日野宿の農民井上林太郎を 婿に迎え、次姉のきんは、越後三根山藩士中野由秀に嫁いでいる。

     勝次郎死後の沖田家の総督は、総司がまだ幼かったため、みつの婿の林太郎によって相続された。

剣技  嘉永3年(1850)、総司が9歳の頃に、江戸市ヶ谷柳町で天然理心流の道場試衛館を開く近藤周斎に内弟子として預けられ、

    剣術修行に励んだ。天性の剣才に恵まれており、その剣技は短期間のうちに上達する。

    10代で理心流の免許皆伝に至り、文久元年(1861)4月、20歳の時には、すでに試衛館の塾頭をつとめていた。

最期  総司は肺結核にかかる。当時、結核は不治の病と言われていた。それでも栄養のある食事をとり、安静にして毎日を過ごせば、

    治癒する可能性がないわけではなかった。総司もできればそうするべきだったろうが、新撰組の斬り込み隊長という立場が、それを許さなかった。   

    慶応3年6月、それまでの西本願寺から屯所を不動堂村に移転する。しかし、この頃から総司の病状は悪化した。

    療養のために隊務から離れることが多くなった。  

    江戸帰還後、3月に甲陽鎮撫隊として甲州に出兵した新撰組だったが、総司も途中までは同行した。

    土方の故郷である日野を通過するあたりまでは、なんとか気力でついて行き、土方の義兄佐藤彦五郎の家では、

    「池田屋で斬りまくったときは、かなり疲れましたがまだまだこのとおりです。」と言って、相撲の四股を踏むまねをしてみせ、周囲を心配させまいとした。

     しかし、強がりもここまでだった。今度こそ完全に戦列から離脱した総司は、以後、幕医松本良順の世話になり、浅草今戸の良順邸にかくまわれる。

    さらに千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に移って療養につとめたが、ついに再起できず、5月30日、静かに息を引き取った。

    享年27歳であった。 新撰組一番隊組長 1864年12月、新撰組は迫る長州征伐のための行軍録を定めるが、

    そのなかで総司は、 一番隊を率いる組長となっている。

     また、翌慶応元年(1865)夏には隊の再編成 が行われ、そこでも総司は一番隊組長の座についている。

    新撰組最強の剣客として、 隊の先頭には総司の姿がいつもあった。

    そして総司の剣は敵に向けてだけでなく、隊内の粛清にも振るわれた。

    慶応元年に隊 を脱走し、大阪に潜伏していた酒井兵庫を、5,6人の部下を引き連れて追捕に向かい、

    取り囲んで斬殺した。また慶応3年には、同じく脱走隊士の浅野薫が尊攘派に寝返ろう としていたことが判明したので、桂川の中に斬り捨てている。

    隊規に違反した者たちに対する総司の組長としての制裁の剣は容赦なかった。