年代 出来事
1833  ドイツの港町、ハンブルクにてヨハン・ヤーコプ・ブラームス、ヨハナ・ヘンリカ・クリスティーナ・ブラームス夫妻の長男として生まれる。
1840 オットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルについてピアノを学び始め、前年からは学校にも通う。父親が居酒屋でダンス音楽や娯楽音楽を演奏する際に、ブラームスもついて行くようになる。
1843 公開の席で初めてピアノを弾く。《神童》ブラームスは、アメリカへの演奏旅行を持ちかけられるが、師のコッセルが反対して旅行計画は頓挫する。ブラームスは著名なピアノ教師マルクセンに師事するようになる。
1848-49 演奏会の舞台に初めて立ち、自作の『愛すべきワルツの主題に基づく幻想曲』を初演する。
1853 エドゥアルト・レメーニとの演奏旅行へ出発。ブラームスはハノーファーでヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムと知り合い、ヴァイマルでフランツ・リストと知り合う。 デュッセルドルフでロベルト・シューマン、クララ・シューマンと知り合う。 ブラームスの楽譜を出版するように、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社のヘルマン・ヘルテルに手紙を出している。 シューマンはこの日付けで、自身が創刊した「音楽新報(Neue Zeitschurft fuer Musik)」に論説『新しい道』を書き、ブラームスを音楽における新世代の巨匠として紹介する。 シューマンに勧められて、自作の出版交渉を行うために、ライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社へ向かった。
1854 シューマンに破滅的な危機が訪れ、橋の上からライン河に身を投じる。 ユリウス・オットー・グリムと、ベートーヴェンの交響曲第9番を初めて聴く。 クララ、7番目の子供のフェリックス出産。ブラームスが名付け親になる。 クララに寄せるブラームスの好意が、恋の情熱に高まる。
1855 ダンツィヒへの演奏旅行。この演奏旅行で、ブラームスは、ベートーヴェンのファンタジー作品77と、ハイドンのヴァイオリン・ソナタト長 調と、シューベルトのマーチ、自作の『サラバンドとガヴォット』を演奏。デトモルト侯爵の王女、フリーデリケと知り合い、彼女にピアノを教える。
1856 ブラームス、アントワープでロンドン演奏旅行帰りのクララを迎える。 ブラームスとクララ、デュッセルドルフに到着。ブラームスはそのままハノーファーに赴く。 ロベルト・シューマン死去。ブラームスはクララから離れ、デュッセルドルフを去る。
1857 デトモルトに赴く。同地で合唱団の式を始めて経験する。
1858 ゲッティンゲンで、アガーテ・フォン・ジーボルトと知り合う。彼女とは婚約するまでに話が進むが、結局、束縛されることを嫌ったブラームスは、婚約を解消する。
1859 秋を再びデトモルトですごく。二曲のセレナード『第1番ニ長調作品11』と『第2番イ長調作品16』が書かれる。長い時間を掛けて完成された『ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15』は、ライプツィヒにおける上演が失敗に終わる。ハンブルクで女声合唱団を組織するが、この合唱団からは新しい合唱曲(『ドイツ民謡』『マリアの歌』『埋葬の歌』 )を作曲する刺激を与えられる。
1860 リストを中心とする《新ドイツ楽派》に対する宣言文に署名。
1861 ハンブルク郊外に住まいを移す。『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ作品24』を作曲。
1862 ウィーンへの初旅行。彼が望んでいたハンブルク・フィルハーモニー・コンサートの指揮者の地位には、歌手のユーリウス・シュトックハウゼンが就く。
1863 ブランケネーゼでカンタータ『リナルド作品50』を作曲。ウィーン・ジングアカデミーの指揮者に任命され、これを受諾する。
1864 ウィーン・ジングアカデミーの指揮者を辞任。
1865 母クリスティーナが死去。『ドイツ・レクイエム作品45』の完成に努める
1866 父が再婚。ブラームスは継母との良好な関係を保つことに心を砕き、後年、継母に対して感動的なまでの心遣いを示す。
1868 ブレーメンにおいて『ドイツ・レクイエム』初演。『ハンガリー舞曲集』出版。
1869 既に1861年に着手していた『マゲローネのロマンス』が完成。
1871 普仏戦争におけるドイツの勝利に刺激されて『勝利の歌作品55』を作曲。この曲は直ちに(4月にブレーメンで、6月にカールスルーエで)上演される。
1872 ウィーン楽友協会の芸術監督に就任。カールスガッセ4番地の住宅に移る。父ヤーコプが死去。
1873 トゥッツィングに夏期滞在中、『ハイドンの主題による変奏曲作品56』を完成。
1874 チューリヒ近郊のリュシュリコンで夏を過ごす。ライプツィヒに於いてハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクとエリザーベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクとの友情が芽生える。

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