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1853年の秋の事です。 20歳のブラームスは、ヨーゼフ・ヨアヒム(ヴァイオリニスト、指揮者)の紹介で、自作のピアノソナタを持ってローベルト・シューマンを訪ねました。シューマンとその妻クララは、ブラームスの才能に驚き、特にシューマン自身は、久しく筆を絶っていた『新音楽時報』に「新しい道」という一文でブラームスを世に紹介しました。シューマンは「世界の門出にあたり、同時代の人間として、私達は彼に敬礼する」と、賛辞を贈るほど、ブラームスの才能に惚れ込んでいました。これによりブラームスの名は広まり、新進音楽家としての第一歩を踏み出しました。幸運なスタートを切ったブラームスですが、彼の実家は貧しく、 13歳の時から、家計を助けるため酒場などでピアノ演奏をしながら音楽の勉強に励みました。幸い彼の才能を認めたエドヴァルト・マルクスゼンは、無償でピアノ演奏の他、音楽理論、作曲法を教え、ブラームスの音楽的基礎を確立させました。
一方、病床に臥しているシューマンは、回復の見込みはまったくつかず、病状は次第に悪化していきました。結局、看病の甲斐もなく、永遠の眠りにつきます。この時クララは「全ての幸福が彼の死とともに去っていった。そして新しい人生が私のために始まる」と日記につづりました。その気があれば、結婚が可能であったのにもかかわらず、シューマンの死により情熱から現実へと引き戻されたか、もしくは良心に従い結婚に踏みきれなかったのか、ブラームスとクララは結局結ばれませんでした。いずれにせよ、ブラームスは音楽家の道を選び、これ以降彼の作風も徐々に変化していきました。その後ブラームスは何度か恋に落ち、結婚のチャンスもあったようですが、生涯を独身で過ごします。クララとの関係は、晩年、シューマンの作品出版をめぐって、一時期しっくりしないこともありましたが、終生、励ましあい、音楽においても人生においてもお互い良きパートナーであり続けたそうです。 |