〜道具〜
●あぐら
“胡床”または“呉床”と書きます。漢代に中国の北方にいた胡人が使用していたもので、屋外で一人で使用する折りたたみ式の腰掛けです。後漢のころ中国へ伝わり、さらに日本にもかなり古い時代に伝来しました。それは北関東の古墳から胡床に坐った人物の埴輪(はにわ)が発見されたことや、記紀にも“呉床(くれとこ)”の名称が記されていることからわかります。後世、武家や民間で使われた“相引(あいびき)”という腰掛けは、これの略式のものです。また、後世、軍陣の間に武将の坐った“床几(しょうぎ)”も胡床の一種です。
●履物
むかし中国に“冠履(かんり)”ということばがあった通り、上流の人士は必ず冠と履(くつ)とを身につけました。日本でも唐にならって上流階級では冠と皮製のくつを使用しました。“履”とは足にしっかりとつく皮ぐつで、草で編めば“草履”になります。“鞋(かい)”は上部をしめた皮ぐつで、わらで作れば“草鞋(わらじ)”。“靴”はゆるやかな皮ぐつです。もっとも、皮革製のくつはのちに日本では仏教の影響ですたれました。
●下駄
“下駄”は日本人の考案のようですが、むかしの中国人も下駄のようなものをはいていたようです。しかし後にはすたれてしまいました。日本伝来時期は不明。
●襖・障子
襖(ふすま)は一名を唐紙(からかみ)とも呼ぶように中国から来たもので、亮隔または紙障ともいいます。これに対して今のいわゆる障子は、明障子としてむかしは区別していました。
●錠
いろいろな形式の錠がありますが、日本へは奈良時代に唐から唐形式のものが伝来し、正倉院その他で使用されました。同院の勅封の錠も古くは唐式のものであったとされています。また、いわゆる“南京錠”はその名の通り中国原産で、日本の太鼓錠、えび錠もこれの一種です。
●笈
これも中国産で、中国では文箱のことを指し、竹製で背負うようにできていました。日本へ入ってからは特に山伏や行脚僧が背負った板製のものを称しました。伝来は平安末期。
●鞄
これは中国で櫃(ひつ)や箱を意味する“來板(キャバン)”のなまったもので、もとは今のトランクに似たものをいいました。鞄という字は、音を“ハク”または“ホウ”といい、なめし皮職人のことをいいますが、“かばん”の意味は日本に入ってから生まれたものです。
●湯たんぽ
暖房具ですが、これは中国の“湯婆子(タンポーツ)”をとり入れたもので、その上にご丁寧に“湯”をつけたわけです。ちょうど御輿(みこし)の上に“お”をつけて“お神輿(おみこし)”というようなもので、元禄のころすでに使用され「脚婆」などと呼ばれました。
●うちわ
うちわは自然発生的のもののようですが、奈良期には中国式の団扇が存在したようです。“うちわ”を“団扇”と書くのは中国式です。平安時代には団扇と蒲葵(びろう)扇とが使用されていましたが、いずれも中国式の太鼓張りでした。多数の骨の両面に紙や絹を張った後世の形式は、とうやら朝鮮式のようです。また、折りたたみ式の“扇”は10世紀頃日本で考案され、中国へ逆輸出されました。
●孫の手
背中など、手の届かないところを掻く簡単な道具ですが、正しくは“麻姑(まこ)の手”といいます。麻姑とは中国の伝説上の仙女で、後漢の垣帝のころ(147-67)に仙道を修めましたが、その爪は長くて鳥の爪に似ており、この仙女に頼んで、かゆいところを掻いてもらうと、心地よいことこの上なかったといいます。“麻姑を傭うて痒きを掻く”ということわざはこれから起こり、物事が意のままに行き届くことをいうようになりました。日本伝来時期は不明。
●剃刀
仏教伝来につれて、“かみそり”も中国からやって来ました。もちろん得度(髪を剃って出家すること)用にです。それまでも髪を剃ることはありましたが、剃刀を用いたものではありません。奈良期になって初めて剃刀で髪を剃ったのです。
●ろうそく
1世紀ごろには蝋燭はあったといわれますが、燭台は古く戦国時代にすでにあったようです。日本へは仏教とともに伝来しました。平安時代に入るとさらに多く使用されるようになりましたが、全て中国から輸入した蜜蝋のため貴重品でした。平安後期には中国との交流が中断したため、その輸入も中止され、専らエゴマ等の灯油を使うようになりましたが、明代に入ると再び中国から入り始めました。しかしこれが蜜蝋か木蝋かは不明です。戦国期の天文・永禄のころ(1532-70)になると、国産の木蝋が開発され、江戸期には盛んに用いられるようになりました。
●封筒
徳川末期(19世紀半ば)までは、書状はすべて折りたたんで紙に包みましたが、封筒は寛永(1624-43)ごろ中国から伝来し、一部の知識階級間では知られていましたが、一般に伝わることはないままに消滅したようです。それが明治維新後から新しく生まれた諸官庁で使うようになり、郵便制度の普及で一般化しました。
●名刺
名刺も中国に生まれたもので、初めは竹を削って名を書いたというから、非常に古い慣習といえます。日本に伝わった幕末ごろ、“名札”または“手札”と呼ばれ、そのころ写真も日本に渡来して来たため、名刺判の写真を“手札型”と称するようになりました。
●牛車
車そのものは古くからあり、『日本書紀』には“雄略天皇と皇后とが葛城山から、車で還幸した”という記述もありますが、このころの車はすべて奴隷に牽かせていたものです。牛に牽かせる車(牛車)を用いるようになったのは、唐の文化を輸入した奈良期以後。
●鏡
中国における金属製の“鏡”は、現在までに発見されたものとしては紀元前5,6世紀のものがありますが、日本に中国鏡の伝来したのは前漢時代(紀元前200〜7)といわれます。当時、未開であった日本人にとって、この姿見の伝来は大変な驚異であったらしく、これを入手するのに奔走したようです。こうした中国伝来の鏡を真似て日本でも“?(ぼう)製鏡”を作り出し、3,4紀ごろには盛んに作られたようです。奈良時代に至って中国産とほとんど差のない鏡がようやく日本でも作れるようになり、以後は日本独自の発達をとげました。なお、鏡の付属品である“鏡台”“鏡箱”も鏡の伝来にともなって伝来しましたが、後には鏡同様日本独自の発達をしました。
〜女性関係〜
●かんざし
女性の髪飾りの一つの“簪”ですが、上代の日本人は草花をそのまま髪にさして“挿頭(かざし)”といっていて、中世に至って造花を用いるようになりました。中国では竹木、金銀、象牙、亀の甲、珠玉などを材料としたものが太古の時代から存在していました。こうした中国のかんざしに真似て日本でも作り出し、髪にさすようになったのは意外に新しくて17世紀の末のことで、最も流行し、多種多様のものが作られたのは明治時代のことです。
●白粉
“おしろい”は中国で紀元前11世紀ころ、初めて作られたといいます。紀元前3世紀には宮中の女官が用いていたようですが、日本に伝わった時期は不明。7世紀末にはすでに鉛のおしろいが用いられていました。日本で初めて作ったのは僧観成ともいいます。
●紅
中国から新羅を経て伝来しましたが、その時期は不明。奈良時代から上流婦人は唇や頬につけましたが、頬に丸くつけるようになったのは唐の真似です。もっとも、唐朝において頬紅を丸くつけたのは、女官がメンスの印としたのに始まります。つまり唐帝の後宮において、それをつけている間は“陛下の夜のお召しには応じられません”ということを表明したものでしたが、次第にその本来の意味が失われて一般的な化粧の一つになったものだといいます。日本へ入って来たのはもちろん一般向きの化粧化したものです。
●眉墨
唐代に流行し、日本には奈良時代に遣唐使や渡来人がもたらしました。当時は眉に墨を塗っていたのですが、平安期に入ってからは、眉の毛を抜いてへらで眉墨をつけるようになりました。これは初めは女子の化粧法の一種でしたが、平安末期(11世紀末)になると、男子まで女子にならって作り眉をするようになりました。
〜食関係〜
●箸
日本人の食事にはなくてはならぬ道具ですが、西洋人のそれがナイフ、フォークと物騒なのに比べて、いかにも平和的でいいですね。中国ではずいぶん古くから箸を使用していました。
日本の場合、『魏志倭人伝』には3世紀ごろの日本人の食事について、手食つまり五本指でもって、手づかみで食べる記述があることから、日本人が中国にならって日本箸を使うようになったのは大和朝廷の権威がようやく確立した大化改新(645)ころといえます。今のような二本箸になる以前の箸は、ピンセットのような(あるいはバタ屋の持っているような)根本が二つになった形のものであったらしいです。それは神事に使う箸からもわかります。
ところで、箸を使うのは中国はもとより、朝鮮半島、日本、インドシナ半島の、いわゆる“中国文化圏”だけなのも面白いです。
●樽
上代の日本ではもっぱら土をねって焼いた甕(かめ)に液体を入れていましたが、中国から樽の製法が伝わると、以後は樽が大いに用いられ、江戸期にも今の空き瓶回収のように、空き樽買いが盛んに行われていました。
●急須
茶の道具で、室町初期(14世紀半ば)に中国から伝来しました。中国では酒を入れて温める道具でしたが、日本では煎茶器です。足利義満・義政らが愛用して各大名、高級武士の間にも広まりました。“キビショ”ともいいます。
●庖丁
本来は戦国時代にいた名料理人の名ですが、転じて料理人全体を、さらにはその料理人の持つ料理用の刃物を指すようになりました。
●その他
ちゃぶ台”という脚の低い食卓があります。中国語の“卓袱(チョフ)”(テーブルクロスのこと)が転じて食卓の意味となり、さらには“チャブ”という食事のことを指すようになりました。
関西地方で皿のことを“おてしょ”と呼ぶのは、中国語の“?子(テイエツ)”の転に“お”をつけたもの。
なお、ゴッタ煮のことをいう“チャプスイ”は、“雑砕(チョプスイ)”という華南語が、そのまま入ったものです。
〜その他〜
●紙
通説によれば、105年に後漢の蔡倫が発明したとされますが、中国でははそれ以前から利用されていたらしく、蔡倫は発明者というよりは改良者だったらしいです。この製紙技術は4世紀には朝鮮に伝わり、7世紀の初め、高麗の僧・曇徴(どんちょう)によって日本に入って来ました。
当時の紙質はなお悪かったのですが、聖徳太子は研究の結果コウゾ、ミツマタ、ガンピなど、外国に少ない良質の原料を灰汁(あく)とともに煮ることを発案、紙漉(す)き法として“流し漉き”を工夫し、さらに抄造にネリを加えるなどして、世界無比・日本独自の良質強靭な和紙が造り出されました。この製法の基本は今もそのまま踏襲されています。和紙には半紙、美濃紙、奉書、鳥の子などの種類があります。
大宝律令の制定(701)により図書(ずしょ)寮所属の造紙手の制度が設けられ、官営の製紙事業が始められました。日本では古くから紙を貴重なものとし、天平時代の仏教興隆に伴う写経の盛行によって製紙業は地方にも伝播しました。
また、コウゾ、ミツマタを原料に、手先の器用な日本人がよい水で造った和紙のほうが品質的に優れていたため、780年には日本から中国へ輸出をするまでになりました。
●印刷術
印刷術は、木版、活版とも実は中国で開発されたのです。7世紀の末から8世紀初頭にかけて起こったといえます。初めは仏像を紙片に印写することが行われ、ついで経典の印刷に及びました。
木版印刷術はたちまち日本にも伝わりましたが、後にはほとんど行われなくなり、仏典や経書等は依然として書写に頼っていました。印刷文化が大いに興ったのは宋の印刷文化の影響を受ける鎌倉期以降のことです。入宋した僧が宋版本を持ち帰ったことからその覆刻気運が高まり、印刷対象も仏典から儒書、詩文書、医書等に拡大されました。
一方、中国における活字版印刷は北宋の頃(1041-48)、畢昇(ひつしょう)が膠泥(ねばりのある粘土)によって陶製の活字を作ったことに始まります。しかし、活字に適するインキが入手できなかったこと、漢字の多さのため、これを全部そろえるよりも木版に彫る方が安上がりで手数もかからぬこと、組版や印刷術の未熟、技術の不公開などから、一般化しませんでした。それから約270年後の元の延祐元年(1314)には木の活字が作られましたが、これまた盛行するに至らず、くだって明代(1465-1505ころ)銅活字が作られました。銅活字は陶活字にくらべて字画も鮮明で耐久性に富みました。
銅版活字による印刷が日本にもたらされたのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際のことで、文禄の役(1592)で漢城(京城)を陥れた日本軍は、王宮内にあった多くの銅活字や印刷道具、活字本を略奪して持ち帰りました。
なお、銅活字版の開発は朝鮮のほうが中国より100年も早かったという説もあります。
現在行われている鉛活字版による印刷は、ドイツのヨハン・グーテンベルク(1400?-68)によって開発されました。
ちなみに、日本で今日、普通に用いられている活字を“明朝体”と呼ぶのは、それが明代の中国で使用された活字体だからです。また、教科書・名刺・挨拶状などに用いる筆記体活字を“清(せい)朝体”と称するのは、清代の印刷に専ら使用された活字体だからです。
日本における明朝体の改刻は明治12年ですが、日本には良質の種字を彫刻する技術がまだ無かったので、中国(清)から種字を輸入して実施されました。これを基礎として日本人種字彫刻師による初の改刻は同17年に行われ、中国への依存は跡を絶ちました。
●唐草文
植物の茎や蔓などの文様の総称です。中国伝来の草花文様という意味から唐草の名がつけられました。花・葉・実などをつけたこの文様は古くから中近東で使用されており、中央アジアを経て漢代に中国に入り、さらに日本へ伝わりました。
●薬球(くすだま)
開店披露のときなんかに吊るしておいてパッと割ります。すると中から花吹雪なんかが舞い落ちて景気をそえるものですが、その薬球は端午の節句に用いる飾り物として中国からやってきた習俗です。中国では続名縷(ショクメイル)、長命縷、五色縷と称し、5月5日にこれをひじに掛けると邪気を払い、悪疫を除き、寿命を延ばすとして古くから用いられました。日本では始めショウブとヨモギの葉などを編んで玉のように丸く作り、これに5色の糸を貫き、さらにショウブの花、ヨモギなどをさしそえて飾りとしました。
室町期以降、薬玉を飾る花は造花となました。江戸期には5月5日に女児がいろいろの造花に糸を通したり、紙に貼ったりして弄んだのも薬玉の名残です。現在では先述の通り開店祝いなどに用いりますが、慶弔用の造花も薬玉の転じたものといえます。
●下肥
最後に尾籠な話で恐縮ですが、糞尿を完熟させて肥料(下肥)にする方法は、5、6世紀のころ中国から渡ってきました。それまでの日本は“厠(かわや)”の言葉通り、糞尿は川へ流していました。のちに農耕文化の発達とともに川へ流す方法は山間部をのぞいて消え、厠の字だけが生活の中に残り、糞尿は中国風に肥料になったわけです。