近藤 勇


(こんどう いさみ)

別名 島崎勝太・大久保大和・大久保剛

幼名  宮川 勝五郎

出身  武蔵国多摩郡上石原村(東京都)

生没  1836年(天保5年)〜1868年(明治元年)4月25日

享年 35歳

流派  天然理心流

妻   近藤 つね

恋人  深雪太夫とその妹

子供  女の子1人(近藤 たま)

死因  斬首


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宮川家の3人兄弟の末っ子として生まれ、幼い頃から腕白でしたが、書物をよく読む子供でした。15歳で兄と一緒に生家近くの天然理心流道場に入門。 後に、その道場の三代目宗家の近藤周助の養子になり「近藤勇」と改名しました。試衛館では剣の腕を磨き、28歳で四代目宗家となりました。同年に妻 つねを迎え、女の子、たまも誕生。

文久3年、幕府が募集していた浪士組に応募し上洛しました。芹沢鴨を暗殺し た後は、勇が局長として新選組の頂点に立ち、土方と共に徳川への深い忠誠 心を抱きながら新選組を引っ張っていきました。池田屋事件での大活躍では 、新選組は治安維持集団として高い評価を受けました。しかし、鳥羽伏見戦 争の始まる直前の12月、右肩を銃で撃たれ以後刀を振るう事ができなくなり ました。

時代が大きく変わってゆくのを止める事はできず、ついに徳川慶喜から贈ら れた「大久保大和」という名で新政府軍に降参。江戸板橋で斬首され、生涯 を閉じました。勇の首はアルコール漬けで京に送られ、首のない遺体は龍源 寺に埋葬されたと言われています。


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