永倉 新八
(ながくら しんぱち) 出身 蝦夷松前 生没 1839(天保10)年〜1915(大正4)年1月5日 享年 77歳 流派 神道無念流、心形刀流 恋人 島原の芸妓、小常 子供 女の子1人 妻 いたが名前は不明(慶応3年末病死) 死因 虫歯の悪化による敗血症
永倉は、元気で明るいはきはきした人物で、少年の頃から剣に興味を持って いたようです。剣への思いはさらに深まり、やがて近藤勇の試衛館道場に 転がり込みます。その後、近藤勇らと共に京都へ向かい、新選組を結成。 永倉の剣の腕は抜群で、池田屋事件でも大活躍しました。 しかし、近藤勇と意見が対立する事が多く、源氏元年の秋、命がけで会津藩 に訴えたこともありました。そして1868年3月、甲州勝沼の戦いに敗れ江 戸に退却した時にまたもや近藤と衝突し、ついに原田と新撰組を脱退。その 後は生まれ故郷に帰り、医師の杉村家に婿入りしました。
いたようです。剣への思いはさらに深まり、やがて近藤勇の試衛館道場に
転がり込みます。その後、近藤勇らと共に京都へ向かい、新選組を結成。
永倉の剣の腕は抜群で、池田屋事件でも大活躍しました。
しかし、近藤勇と意見が対立する事が多く、源氏元年の秋、命がけで会津藩
に訴えたこともありました。そして1868年3月、甲州勝沼の戦いに敗れ江
戸に退却した時にまたもや近藤と衝突し、ついに原田と新撰組を脱退。その
後は生まれ故郷に帰り、医師の杉村家に婿入りしました。
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