地球温暖化 わたしたちの未来
  
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背景

 
冷戦終結により、先進七カ国サミットは七カ国の結束を誇示するためにあらたに中心的な議題を探す必要に迫られた。そこで白羽の矢が立ったのは地球環境問題であった。これをきっかけとして地球環境問題は世界中の注目を集めるようになり、国際政治の議論の中心となっていったのである。1988年にカナダのトロントで開催された「変化する地球大気に関する国際会議」をはじめとして、1989年 にはオランダのノルトヴェイクで初の閣僚級レベルの会合が開かれた。これ以降、5回を数えた政府間交渉会合(INC;Intergovernmental Negotiating Committee)、1992年ブラジル・リオデジャネイロで開催された国連環境開発会議を経て、「気候系に対して危険な人為的干渉を及ぼすことにならない水準において大気中の温室効果ガスの濃度を安定させること」を究極の目標とした気候変動枠組み条約が合意された。これは気候変動の防止を目的とした国際的な取り組みについて初めて定められたものであった。しかしこれ自体はその名が示すとおり、枠組みだけを決めたいわば「宣言」に過ぎず、具体的な対策は後に決められる議定書へと委ねられた。


注)
 a)燃料の燃焼以外の工業プロセスにおける全ての排出を対象とする。
 b)土地利用の変化及び森林による排出以外
 アメリカ)HFCSはHFCS、PFCS及びSF6を含む。
 チェコ)HFCS、HFCS、PFCS、SF6:潜在的な排出量
 トルコ)CH4:埋立及び石炭採掘による排出を除く。
 合計)概算、韓国を除く。
赤色は排出量の多い上位五ヶ国
出典:OECD Environmental Data Compendium 2002

 



COP

 気候変動枠組み条約第一回締約国会議(COP1;Conference of the Parties)がドイツのベルリンで、ベルリンマンデートと呼ばれる締約国の義務の強化、発展途上国への新たな義務は課さないなどといった文書が合意された。その中で1997年に開催されるCOP3までに議定書、或いはそれに代わる法的文書を定めるよう決議された。これによりまた新たに議定書をまとめるあたらな交渉がスタートした。その一連の交渉は、ベルリンマンデートに基づくアドホック会合(Adohoc Group on the Berlin Mandate)と呼ばれ1995年8月から合計8回を数えた。しかし温室効果ガスの削減目標などの法的文書の基幹となる事項について同意できないまま交渉はCOP3へと持ち越さることとなった。

COP3

 
 COP2においてCOP3が日本の京都で開催されることが決定し、世界の目は次第に日本に向けられるようになった。そしてついに1997年12月1日、京都の国立京都国際会議場でCOP3が開催された。161カ国の政治代表団とNGO、マスコミ関係者など1万人を越える人々が一堂に会し、議長は当時の旧環境庁(現環境省)長官大木浩氏が務めた。この会議は各国の利害が対立していたために議論は非常に難航した。そのため最終日になっても合意を得られず、徹夜の協議の末明くる日の午後になってようやく合意が成立し、ようやく京都議定書が採択されたのだった。京都の議定書に合意によって、世界は気候変動問題の解決に向けて本格的な第一歩を踏み出すことになった。


  
 
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