平安時代前期

寝殿造の庭

 延暦13年(794)になって都が平安京に遷されました。京都は三方が山に囲まれ、清流にめぐまれた景勝の地です。いたるところに森や池や泉があり、三方の山々は古生層に属してゆるやかな起伏をもち、また盆地縁辺にはいくつかの独立した小山も点在していました。この古生層の山河からは、美しい庭石と白砂がとれました。地形からも材料からも、庭園をつくるのに好適の地であったといえます。そのため、平安時代初期から、平安京内に神泉苑、淳和院、齋宮等の庭園が数多く作られました。


10世紀も半ばを過ぎる頃は「古めかしきもの」から「今めかしきもの」への変換期で、生活が変わりつつあったといわれています。中国から伝来した中国絵画がようやく日本化され、いわゆる「大和絵」が成立したのもこの時期であり、漢詩文に対し仮名書きの文学作品が書かれるようになったのもこの時代です。 貴族の住宅や庭園に中国とは違った独自の様式が造られました。貴族の住宅は寝殿造と呼ばれ、寝殿造の庭園は寝殿造庭園と言われていました。寝殿の正面を中島のある池とし、流れ(遣水)から 池に水を流し込むような造りになっていました。

門は西か東にあって、南側には敷地いっぱいに庭園がつくられ、寝殿は南面していましたが、南門のなかった点は中国の形式とは異なります。南庭は白砂が敷かれ、年中行事の儀式の場とされていました。その前方には2、3の島が築かれ、島へは南庭から反り橋を、さらに島から対岸に平橋を架けていました。中門廊の南端は池に臨み、釣殿が造られ、納涼、月見の宴に用いられたり、舟遊びの際には発着の役目を果たしました。中島の裏側には楽屋が造られ、舟遊びに興をそえることもありました。南庭には遣水(やりみず)と呼ばれる流れが寝殿と東の対屋との間、透渡廊の下をくぐって流れていました。池がつくられないような狭い敷地の場合でも、この遣水だけはつくられました。遣水の流路とその護岸としての石立は、流れに変化をつけるもので、水が石につきあたって白く波だつ面白さや水音にもこまかく気が配られました。


寝殿造の庭が特に詳しくわかっているのは、当時の公家橘俊綱が書いたといわれ、日本最古の作庭秘伝書ともいわれる『作庭記』が残されているからです。『作庭記』には庭園の構成(地割)から、石組、滝や遣水の作り方、植裁等の様々な技法について記載されており、自然の風景からモチーフを得るという主張が貫かれています。また自然と作者との対応のしかたが「乞はんに従う」という言葉で表現されているのは重要です。すなわち、自然の地形や岩石が、人間に要求してくるというのです。自然が人間に要求するという感じ方に、日本人独特の自然観がみられます。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中にとけこみ、自然に従いながら作庭しようとしています。