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鎌倉時代 禅院の庭鎌倉時代後期(12世紀末)、宋より禅宗が伝えられましたが、同時にもたらされた禅宗寺院の様式や庭園は、1世紀を経てようやく日本的に消化され、定着するようになりました。 この中心人物が夢窓疎石(むそうそせき)でした。夢窓国師は自然を愛好し、自然の中での悟りの場としての日本庭園を位置づけました。行くさきざきに名園を造り、なかでも西芳寺(通称・苔寺/こけでら)の庭は、禅宗の世界観で構成された傑作です。この庭園が以後の庭園に与えた影響は測り知れないほどです。 寺は山の麓(ふもと)につくられ、池と、その上の山の斜面を利用した禅堂の庭とに分けられます。またこの禅堂より山に登る道があり、頂上には縮遠亭という休憩所がありました。頂上からは桂川周辺を展望しようとし、池辺の2層の舎利殿からは庭園を見下ろそうとする構想で、両者は同一の考えから出た、立体的な構想力を示したものです。 池には蓬莱島や鶴島、亀島などの宗教的意味を持つ島があり、小島には白砂が敷かれ松が植えられ、亭がありました。池の3面の花木は2段に刈り込まれていました。池の周辺には2層の舎利殿のほかに、釣寂庵、湘南亭、潭北亭、貯清寮、邀月橋、合同船がありました。広さに比べ建築的要素の多い庭といえるでしょう。この邀月橋は亭をもった亭橋で、これを渡ると長鯨にのって大海に浮かんだようだといわれました。向上関より石段を上がった所に指東庵という禅堂があります。この山腹に巨石を組み、滝を象徴しています。ここは『作庭記』にいう山里の景に似ながら、きびしい禅の世界を思わせます。悟りの手段として作られる事によリ、単なる鑑賞物から精神性を備えた庭になったと言えます。禅堂の前庭として非常に相応しい環境の構成であり、石組みの最高峰といえます。 夢窓国師が庭園を造るとき、それは遊興のためではなく修行の一部であり、庭園をつくるために田畑をつぶす苦しみを述べた記録も残されています。他の一流芸術に匹敵する庭園は、こうした心のあり方から生まれたともいえます。この石庭は枯山水として知られていますが、これ以来、書院の庭としてこの石組みが発展しました。 |
京都 (上)龍安寺・(下)南禅寺 |