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室町時代 茶庭15世紀後半より京都、堺の町衆の間から「下々のたのしみ」としての茶の湯が流行しました。茶を飲み茶器を鑑賞しあうことで、主客の融合をはかったのです。 茶庭の考え方の基本は、禅茶一味を反映して、厳然たる自然の中で、悟りの境地を得る、という田園的・山間的情趣を表現するもので、茶室は農家の藁屋を、茶庭は山寺への道の趣を表そうとしました。茶庭は幽邃な境地を好み、茶人は侘びの精神から華やかなものは好みません。茶庭には花の咲く木や香りの高いものは用いませんでした。これは茶室の内で花を用い、香りを生かして使うからです。他にも、植木は山にある常緑樹を用い、剪定(せんてい)は最も戒められました。里にある木も植えず、人工を避けできるだけ自然に、山の趣を出そうとしたのです。茶庭の骨組みをつくっているのは、飛石と手水鉢です。後には石灯籠が夜の茶会の照明として据えられるようになりました。茶庭に使われる手水鉢や灯籠は、新しくつくるよりは既存のものが好まれました。廃絶や改修で不要になった橋脚や墓石などが茶人に見立てられて、茶庭の重要な見どころとなりました。長いあいだ風雨にさらされていると風化して苔が生えます。その侘びた姿が好まれたのです。 茶庭はまた露地ともいわれ、茶室への「みち」を意味しています。正式な露地は、露地門側の外露地(そとろじ)と茶室側の内露地(うちろじ)からなり、 その間に中潜(なかくぐり)と呼ばれる中門(簡素な枝折戸にすることもある)があります。 外露地には、寄付(よりつき)、下腹雪隠(したばらせっちん)、外腰掛待合があります。 内露地には内腰掛、砂雪隠(すなせっちん)、蹲踞(つくばい)、茶席が設置されます。この形式を二重露地といいます。 また露地を内、外に区別しない一重露地や、三重露地という特殊な露地もあります。 亭主は、客の到来を見計らい、あらかじめ水を打って露地を清めます。茶事に招かれた客は、座敷の寄付(控えの間)で着替え、外露地の「腰掛待合」で待機します。 合図により苑路を進み、中門へ向かうと、そこで亭主が客を迎えます(これを『迎付け(むかえつけ)』といいます)。内露地に入り、客は「蹲踞」で口をそそぎ、手を清め「躙口(にじりぐち)」から茶室に入ります(『席入り』といいます)。 露地では、苑路が長い山道をイメージして曲線状に造られ、そこに歩行者を導く飛石が打たれます。あくまでも歩くための庭であって、見る要素は少しかありませんが、飛石ひとつひとつが山里を進み、峠を越える思いを表しています。 しかし、町衆の人々に育まれた茶の湯が、千利休の弟子の古田織部や小堀遠州のような武将の手に移るころには、かなり内容が変化しています。露地は、広い大名屋敷内につくられた関係もあって広くなりました。大きな露地は途中に垣根を一つ二つつくって変化をつくり、また見る要素を強くするようになりました。平庭に近かった露地に築山をもうけ、流れや池までもつくり、また石灯籠が重要な見どころとなったのもこのころです。ここに寝殿造風な庭園の伝統や書院庭の石組みの流れと触れあう面がありました。この合流点に立った人物は小堀遠州であり、庭園としては桂離宮の庭園が現存します。 |
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