江戸時代

回遊式庭園

 17世紀初め、徳川家康が政権をとって以来、諸大名を統制するために参勤交代という制度を考えだしました。このために大名たちは江戸と領国の両方に庭園をもつ邸宅を構えました。池、島、假山(築山)、橋、矼(いははし)、船、鑓水で構成されており、これを大名式庭園ともいいますが、広大な敷地に茶室や枯山水等を取り入れ、庭園の中を回遊して鑑賞することを主眼とした庭であったため、様式としては廻遊式庭園と呼ばれます。

江戸に造られた庭園の中で、最も有名なものの1つに小石川後楽園があります。徳川光圀が明の朱舜水を招いて設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚です。池のまわりを回遊して観賞するように造られ、庭園内の景観として自分の好む名勝地をモチーフとしたものが配されました。それらはいずれも庶民の遊観所で、また中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山もとり入れています。こういう景観をひきしめるためにも、また利用上からも、休憩所としての茶屋や御堂を建て、これらの建物と庭景観とで局所局所をまとめ、順路にそって回遊するようにできています。広々した池面に出る前に必ずうっそうと茂った木立を通り、山々を通りぬけるときも変化にとんだ建物や橋で飽きることがありません。

17世紀も中期になると町人の文化が栄え、華やかな風潮が支配する時期を迎えましたが、庭園も広い芝生をとった明るいものになりました。中世のように池泉にも石組みを多く使わず、石を使うときも、捨石といって要所に1個だけを捨てたかのように配することが行われました。丸みのある石が好んで使われたのはこの頃です。

18世紀初期には14年の歳月をかけて作られた岡山市の後楽園(当時「茶屋屋敷の庭」とも言われた)は芝生と池を主とした開放的な空間創りが心地よい庭で、現在日本三名園に数えられています(他の2つは金沢の兼六園と水戸の偕楽園)。

18世紀後半になると2つの特徴が現われました。1つは著しい園芸の流行です。江戸ではある地域一帯に植木屋が軒を並べて花園を開放し、江戸市民の名所になりました。これが大名の庭園にも入って、小石川後楽園が再度改造され庭園内に草花が植えられました。また、江戸の隅田川東岸の向島に町人が造った百花園は草花ばかりの庭園であり、しかも営業として成立したのでした。もう一つの特徴は、大名庭で庶民に開放されるものがでてきたことです。水戸の偕楽園や白河の南湖がそれです。庶民といっても一般大衆すべてとはいきませんでしたが、近代の公園へ結びつくものとして重要です。






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