フランス革命

フランス革命



バスティーユ襲撃事件

絶対主義下のフランスの政治・社会体制は、アンシャン=レジーム(旧制度)と呼ばれ国王を頂点とした封建的身分制度が維持されていた。
この体制は貴族や聖職者が農民の犠牲の上で贅沢な生活を送るため維持された。そして、犠牲となった農民たちは深刻な食糧不足とアッシニア紙幣の下落による物価高騰に悩まされる事になる。

アンシャン=レジーム
特権身分さまざまな特権(免税特権など)と領民支配権を認められていた聖職者、貴族身分。全人口の2%が土地の約40%を所有。
第一身分聖職者身分。約12万人―フランスの総人口の約0.5%平民出身者の多い下級聖職者の中には変革の側に立った者も多い。
第二身分貴族身分。約40万人全人口の約1.5%
第三身分平民身分のこと。約2450万人。農民(人口の80%)と市民階級からなる。参政権が無い。

大多数の第三身分だけが課税を強いられ、不平等や矛盾が次第に社会問題となってくる。

財政難の深刻化。ルイ14世および貴族たちの贅沢三昧の生活のため、ルイ16世の頃には国家財政は大赤字に陥った。アメリカ独立戦争への参加、王妃マリー=アントワネットに代表される王室、貴族たちの浪費が最大要因とある。
(当時の国庫収入は年間約5億リーブル、革命直前の財政赤字は約45億リーブル。負債利子だけで約3億リーブル)
ティルゴー(フランスの重農業主義経済学者・政治家)、ネッケル(スイス生まれの銀行家)の登用[僧侶、貴族への課税企画]→貴族の反対にあい失脚。

1789年 三部会招集(採決方式をめぐる対立)聖職者、貴族が主張した1身分1票という伝統的議決方法。第三身分は個人別票決を主張。40日間も堂々巡り

第三身分は国民議会「球技場の誓い」で、ヴェルサイユ宮殿付のテニスコートで憲法を制定するまでは解散しないことを誓った。
しかし、国王は武力で国民議会を解散させようと各地の軍隊をパリに召集。パリ市民たちは、国王の強制的な態度に反抗して市民で軍隊を編成した。そして、7月14日バスティーユ監獄を襲撃して武器・火薬を奪った。

◇国民議会:三部会の第三身分が、三部会から分離して結成された会議。のちに第一身分の多くと第二身分の一部が合流。


◇「バスティーユ襲撃事件」:バスティーユとはフランス語で牢獄の意味。ネッケル(国王側)の罷免と軍隊のヴェルサイユ集結の動きにパリ市民が、大量の武器があると信じられてきたバスティーユを襲撃、占領した事件。のち、フランス共和国の建国記念日となった。(◇革命暦)

EPISODE
趣味の狩猟から戻ったルイ16世がこの事件についての報告を聞いて「暴動だな」と言ったのに対し、家来が「いいえ陛下、これはこれは革命です」と告げた。



ヴェルサイユ行進と国王逃亡事件


パリ市民たちはラファイエットを中心に「封建的諸制度」を宣言し、「人権宣言」
フランスの国旗の三色が決まったのもこのとき
パリ市内では政治的混乱や不作の影響で物価が高騰し、食糧難にあえいでいる時にヴェルサイユでは相変わらずの贅沢ぶりに市民たちの怒りは爆発。
主婦たちを中心に「パンを寄こせ!」と叫びながら武器、大砲を持ってヴェルサイユ宮殿に押し寄せてきた。これがヴェルサイユ行進である。
「実際の市民の生活を見てみろ!」と民衆に包囲され国王一家はパリに連れ戻された。一方、政府の実権を握っていたのは自由貴族の国王中心の政治を望んでいたラファイエットやミラボーで、しばらくは平和な時期が続いた。
しかし、ヴァレンヌ逃亡事件が起こった。国王一家がマリー・アントワネット の兄が皇帝を勤めるオーストリアに亡命を図ったのである。国王に裏切られた民衆が怒り、再び混乱が始まった。




王の処刑と国民公会

1791年9月ラファイエットたちによりフランス政府は立憲君主制を確立し、立法会議を成立。ヴァレンヌ逃亡事件により国民からの信頼は無くなったが、国王に対する意見が分かれていたため、ルイ16世はフランス国王の地位にあった。
このころヨーロッパ諸国ではフランス革命を危険視し軍事介入の姿勢を見せた。絶対王政をとる国王は次に我が身に起こることを恐れたためでる。
1792年4月、フランス政府はオーストリアに宣戦するが、貴族たちの亡命が相次ぐ中指揮官不在でフランス軍は連戦連敗。
窮地に陥った政府は義勇軍を集めるべくフランス全土に祖国の危機を訴えた。
このときマルセイユから義勇軍が歌った「ラ=マルセイエーズ」が現在のフランス国家になっている。
政府の監視下にあった国王は裏でオーストリアとつながって革命政府を倒そうとしていたがパリ市民たちに8月10日、テュイルリー宮殿を攻撃され国王の王権を停止、国王一家を幽閉した。(8月10日事件)パリ市民はこれに乗じて裏切り者や反革命分子を次々と虐殺した。危険を感じたラファエイエットはこの時亡命している。
9月革命軍はヴァレミーでオーストリア・プロセインの連合軍を撃退し、対外戦争は決着がついた。
一方、フランス国内では国民公会が成立。王政廃止、共和政が決まった。このときの決定で翌年1月、ルイ16世、マリー・アントワネットは10月に処刑が決定された。