ひな祭り・ひな人形の歴史

『ひな祭り』の起源は中国にあります。
それが日本に伝わった後、貴族の文化と混ざり女の子の人形遊びとして発展していきました。
時代が進み江戸時代になると、『ひな祭り』は貴族から大名家や町人にも広まり、
現代にも続く女の子のお祭りとなりました。

<年表>

時代 西暦 起こったこと
紀元前1046〜前256
中国では、人々が水辺で手足を洗って厄を落とし、蘭草(らんそう)で穢れ(けがれ)を祓っ(はらっ)ていた。
220〜265
周の時代から行なわれていた行事が3月3日にやるようになり、日本に伝わった。
日本古来
  「ひとがた」を作り、息を吹きかけ体をなでて、その後に川に流す風習があった。
この名残が、流しびなである。
奈良
710〜794
「ひとがた」が広く広まった。
平安
794〜1185

中国から伝わった陰陽(おんみょう)五行説による暦が、政治や生活習慣の基本になった。
貴族の姫君や女房たちが、「ひとがた」とは違う紙雛を使い、ままごとや人形遊びをしていた。

平安以降
  陰陽五行説を基にした祓い(はらい)や禊(みそぎ)と人形遊びが結び付き、宮中だけではなく、庶民にまで広まった。
 
1479
宮中には、姫君の雛遊びのための建物があった。
室町〜江戸
 

中国から貝殻を焼いた白い粉(=胡粉)を使って、人形を作る技術が伝わってきた。飾ることを目的とした立雛が完成する。

 
1625
宮中で、3月3日前後にご馳走を揃えたひな祭りが行われていた。
最古の座り雛、寛永雛(かんえいびな)ができる。
貞享(じょうきょう)

1684〜88

江戸の中橋(なかはし)、尾張町(銀座)、十軒店(じっけんだな)、麹町(こうじまち)4丁目、人形町で、3/27〜3/2まで雛市が立つようになった。
そこでは、人形の他に調度や菓子も売られていた。

元禄(げんろく)、鎖国の頃
1688〜1703

普通の家にも紙雛が広まった。
大名や上級の武家では、女性のための行事としてひな祭りが行なわれていた。
また、より緻密な(ちみつな)細工がされた元禄雛(げんろくびな)ができた。
それと共に、あわせて調度なども作られるようになった。

享保(きょうほ)
1716〜1735

雛市の時期が25日〜になり、浅草茅町(浅草橋)、池乃端仲町(いけのはたなかまち)、牛込神楽坂(うしごめかぐらざか)、麹町3丁目、芝神明(しばしんめい)などでも立つようになった。
また、江戸だけではなく京都や大坂、名古屋などでも雛市が開かれるようになった。
この頃、ひな祭りが庶民の行事として定着してきた。

享保〜寛政(かんせい)
 

精巧な細工を施した大きめの座り雛である享保雛が生まれた。
享保雛は、裕福な町人に好まれていた。

宝暦(ほうれき)

1761
京都の人形師、雛屋岡田次郎左衛門の作った雛が次郎左衛門雛として、日本橋に進出してきた。
次郎左衛門雛に、江戸の裕福な人々が魅了された。
明和
1764〜72
次郎左衛門雛に対抗して江戸で古今雛(こきんびな)が生まれた。
幕末〜明治
  古今雛が一般庶民にも広まった。
明治・大正
  ひな人形の顔や衣装が立派になった。

※西暦は、全ておおよその年代です。

 

ひな人形のモデルと言われている人形

さるぼぼ 飛騨高山で生まれた布人形。
生まれたばかりの赤ちゃんの枕元に置かれ、その子にふりかかる災難を代わりに受けるおまもりの役割をしていた。
天児(あまがつ) 平安時代に、宮中や公家の間で使われていたお守り人形。
ひな人形の原型で、立雛のモデルになったと言われている。
這子(ほうこ) 平安時代に、民間で作られたお守り人形。
立雛に似ていて、うつぶせにするとハイハイする子供にも似ている。

*豆知識
  人形が日米親善大使!?

 大正3年(1924)頃のアメリカでは、大恐慌の影響で排日感情が高まっていた。
これを悲しんだ宣教師シドニー・ルイス・ギューリックは、アメリカと日本の子供たちが親交を深めることによって、
お互いの理解を深めようと思った。
そこでギューリックは、日本のひな祭りに合わせて全米から集めた人形を日本に贈った。
その人形は、手作りの洋服を着ていてパスポートも持っていた。
そして、人形を受け取った日本の子供たちも答礼(とうれい)人形を贈った。