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土方歳三ヒジカタトシゾウ

新撰組副局長

1835年5月31日−1869年6月20日

*生まれ
1835年5月5日に、武州多摩群石田村ブシュウタマグンイシダムラにて豪農、土方隼人義諄ヒジカタハヤトヨシアツ土方恵津ヒジカタエツの間に、十人兄弟の末っ子として生まれる。
しかし、父は彼の誕生を知ることなく他界し、母も彼が四歳のときに他界した。
その後は土方次兄、喜六キロク夫妻に育てられ、また姉の影響により学問や剣道にいそしむ日々を送った。
また少年期に土方は武士になりたいという想いから、家の庭に竹を植えたという。
17歳の時には松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋に奉公に言ったが、そこで女性問題を起こし帰ってきたという伝説がある。
(この伝説は現在ではやや信憑性に欠ける)
松坂屋からの奉公から帰ってきた後は、あまり熱心ではなかったが、家伝の薬「石田散薬」の行商などをやっていた。
後の新撰組局長近藤勇コンドウイサミとはこの頃出会ったとされており、1859年3月29日、天然理心流テンネンリシンリュウに正式入門した。
土方は剣術だけではなく俳句なども嗜み、習作「豊玉発句集ホウギョクホックシュウ」なども残している。
習作なので決して上手な句とはいえないが「白牡丹 月夜月夜に 染めてほし」などの繊細で美しい作品をいくつも残している。
もし彼がずっと俳句をやっていたなら、彼は武人ではなく俳人になっていたかもしれない。



*新撰組
1863年の春、浪士隊ロウシタイ募集により近藤、沖田ら試衛館メンバーと共に京へ上った。
その後の1863年8月18日に、彼等壬生浪士組ミブロウシグミの功績が認められ「新撰組」となり、芹沢セリザワ暗殺の後、土方は局長近藤の下、新撰組の副局長となった。
新撰組における一大イベント、池田屋事件においては副長としての手腕を存分に発揮し、新撰組の名を一気に世間に知らしめた。
新選組内部では、常に新選組の規律を隊士らに遵守ジュンシュさせ、規律を破った隊士に対してはたとえ幹部の人間であろうと切腹を命じており、隊士から「鬼の副長」として恐れられていたとされる。
そのため、新選組隊士の死亡原因第1位は切腹であったと言われている。
また脱走者は切腹または斬殺後見せしめにするという残虐なことも新撰組副局長として行った。
他にも、伊藤甲子太郎イトウカシタロウ御陵衛士ゴリョウエジにスパイの斎藤一を送るなどして伊東の近藤暗殺計画を未然に防ぎ、伊東、藤堂平助トウドウヘイスケを暗殺し御陵衛士達を壊滅させるなど、新撰組において重要な役割を幾度となく果たした。



*戊辰戦争
18681月3日に起きた鳥羽・伏見トバ・フシミの戦いにて、怪我のため戦えない近藤の代わりに隊を率いて戦うが、新政府軍には勝てず敗戦。
その後甲陽鎮舞台コウヨウチンブタイとして甲州コウシュウへ出兵したが、またしても敗れ、流山ナガレヤマ(現千葉県)へと移動する。
流山へ移動したものの、彼らはすぐに新政府軍に囲まれたことを知り、近藤は「こう囲まれては逃れる術もない。武運もここで尽きたよ。わしは潔く腹を切る。」と言った。
これに対し土方は「なにを馬鹿なことを言うな。それでは犬死だ。よく考えてくれ。」と切腹をしようとする近藤を止めたという説もある。
これは近藤が武士道を立てて切腹するより、近藤の弁舌ベンゼツで時間を稼がせ、その間に部下達を会津まで逃がすという、隊士達の命を考えた故の言葉だった。
しかし官軍に出向いた近藤は斬首されてしまい、大事な兄でも有り盟友でもあった近藤を自分のせいで失ったと感じた土方はこの先も戦い続けることを決意した。
土方より先に会津入りを果たした斉藤一サイトウハジメ山口次郎ヤマグチジロウと改名し、部下を率いて白川口の戦いに参加。
宇都宮戦にて負傷した土方はこの戦いに参加することはなく、土方が再び戦いだしたのは母成峠ボナリトウゲの戦端が開かれる少し前だった。
この頃、土方の元には仙台藩からの密偵が訪れており、共に戦って欲しいとの要望があった。
これをめぐって土方と山口次郎の意見が対立し、2人は会津で別れることになる。
それから土方は仙台にて、旧幕府脱走軍総裁榎本武揚エノモトタケキと合流し、蝦夷エゾを目指すことにした。



*最後
土方達新撰組が蝦夷地に上陸したのは1868年12月20日の猛吹雪の夜だった。
翌日には隊を2つにわけ、土方達の隊は五稜郭ゴリョウカクへ向かい、五稜郭、松前、江差を占拠した。
そして函館共和国を樹立するために選挙を行い、人事を決定した。
総裁は榎本武揚であり、土方は陸軍奉公並に選ばれた。
しかし共和国の軍資金がつき、この頃から土方は東京からの和平工作がじき来るだろうと考えは始めた。
やがて榎本武揚らが新政府の岩倉具視イワクラトモミとの交渉に乗り出すが、新政府側は無条件克服を進めた。
しかしそれに応じるはずもなく、戦いは終焉へと近づいていった。
そんな最中のある日、土方は小姓の市村鉄之助を呼び、共にこの地で死にたいと言った市村に自身の遺髪と写真を渡して、自身の故郷である武州日野へ届けさせた。
それが今世間に知られている、洋服を着た土方の写真である。
1869年4月9日、新政府軍の乙部上陸により戦いは始まった。
土方は60名の兵を率いて五稜郭を打ってでた。
一本木関門を守りながら「我この柵にありて、退く者を斬る」と叫んだことは有名な話である。
しかし馬上で土方は突如銃弾に腹部を打たれて落馬。
それは1869年5月11日の10時ごろのことであり、その後彼が目を覚ますことはなかった。
彼の遺体は小芝長之助コシバチョウノスケらに引き取られて、五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に埋葬されたとも様々な意見がある。
享年は35歳であった。


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