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近藤勇コンドウイサミ


新撰組局長

1834年11月9日−1868年5月17日



*生まれ
1834年に今の東京都、調布市に生まれる。
父は宮川久次郎ミヤカワキュウジロウといい、家は古くからの豪農であっった。
近藤はその家の三男であり、子供の頃の名は勝五郎カツゴロウといった。
農家の三男であったが、父の久次郎が大の剣術好きであったため、自宅に道場をつくり、天然理心流テンネンリシンリュウ近藤周助コンドウシュウスケを師匠に迎えて息子達に稽古をさせていた。
彼は勝五郎の剣の才能に目をつけ、自分の道場である試衛館シエイカンの跡継ぎとして、16歳の勝五郎を彼の実家である島崎家に養子として迎えられ、こうして勝五郎は島崎勝太シマザキカツタとなった。
その後正式に島崎家と養子縁組を行い、島崎勇と名乗り、のちに近藤勇となった。
1860年に松井つねと結婚し、翌年には天然理心流剣術宗家四代目を襲名シュウメイした。
ちなみに後の新撰組副長土方歳三ヒジカタトシゾウや一番隊隊長沖田総司オキタソウジなどの試衛館メンバーとはこの時から面識があった。



壬生ミブ
1863年に徳川家茂トクガワイエモチ上洛ジョウラクを警護する浪士組ロウシグミに参加。
試衛館メンバーは勇を含め8人がこの浪士組に参加した。
京都にで浪士組の幹部である清河八郎キヨカワハチロウが江戸に帰ることを提案すると、近藤は意義を唱え、同じく意義を唱えた芹沢鴨セリザワカモらと京都に残った。
その後、京都守護職キョウトシュゴショク配下で、壬生浪士組ミブロウシグミとなる。
当初の局長は芹沢鴨であったが、芹沢は 数々の横暴な振る舞いにより粛正シュクセイされ、その後近藤が局長の跡をついだ。



*新撰組
芹沢が粛正される少し前に浪士組は新撰組と名を変え、近藤は新撰組の局長となった。
1864年に中川宮邸放火計画を池田屋事件にて新撰組局長として沖田と共に先陣をきるなどと奮戦。
その際には愛刀虎徹コテツを振るい、故郷に宛てた手紙には「拙者の刀は虎徹ゆえ刃こぼれもせず、折れもしなかった。」などとも書した。
禁門の変出動の後、近藤は隊士募集のために帰郷し、伊藤甲子太郎イトウカシタロウら新隊士の補充に成功。
1867年、新選組は幕臣となり、近藤は御目見得オメミエ以上の格となる。
その前にも近藤を直参ジキサンに取り立てようというはなしはあったが、「わたしは新撰組の隊長で結構でございます。」といった。
その理由としては、前回は近藤一人への話であったが、今回は新撰組全員への直参の話であったこと。
もう一つの理由としては、近藤への評価が高まり単なる新撰組局長という立場では行動しにくくなったためであった。
その大きな原因は伊藤甲子太郎との関係にあった。
彼は新撰組内に派閥をつくり、近藤と対立。
そして大政奉還タイセイホウカン後の11月18日、近藤は伊藤に偽りの呼び出しをかけ、泥酔させ伊藤を暗殺した。



*最後
1868年の鳥羽。伏見トバ・フシミの戦いでは先ほどの伊藤の件での報復として伊藤グループの残党に伏見街道で銃で撃たれて負傷したため、隊を率いることができなかった。
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は幕府軍艦で江戸に戻る。
3月、幕府の命を受け、大久保剛オオクボツヨシと改名。
しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府ソウトクフが置かれた板橋宿イタバシシュクまで連行される。
その後近藤は、江戸郊外の板橋にて処刑された。
享年は35歳であった。(満33歳)
彼の首は板橋と大坂の千日前、京都の三条河原で梟首キョウシュされたが、その後の首の行方は不明である。


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