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永倉新八ナガクラシンパチ


新撰組二番隊隊長

1839年5月23日〜1915年1月5日



*生まれ&新撰組
1839年に松前藩に生まれ神道無念流シントウムネンリュウの免許を皆伝し、その後18で藩を脱藩し苗字を永倉へと変える。
その後近藤の道場、試衛館シエイカン食客ショッカクとして入門する。
新撰組結成時からのメンバーであり、新撰組局長近藤、副局長土方、一番隊隊長沖田らと共に新撰組の中核となり活躍した。
しかし、戊辰戦争ボシンセンソウにおいて彼は甲陽鎮部隊コウヨウチンブタイまでは近藤、土方らと行動を共にするが、松前藩の家老の好意で帰藩を許され、しばらくして近藤ら新撰組とは袂を分かっている。



*最後
松前藩に帰藩した後は、50石を賜りタマワリ、江戸下、谷三味線掘の藩の長屋に住んだ。
ある日一度だけ、油小路で暗殺した伊藤甲子太郎イトウカシタロウの実弟にばったり会い、背筋を凍らせたが、結局は何事もなかったという話もある。
明治後は藩医、杉村介庵の養子となり、北海道、東京などを渡り歩く。
小樽オタルに住んでいる間には、監獄で剣術師範を勤め、東京では剣術道場を開くという剣術に生きた生涯であった。
1915年1月5日、北海道の小樽にて享年77歳の生涯を終える。
新撰組の中で長寿をまっとうした数少ない人間、永倉は、後に新撰組の貴重な生き証人となった。


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