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沖田総司オキタソウジ


新撰組一番隊隊長

1842年−1868年7月19日



*生まれ
1842年に白川藩シラカワハンに使える沖田勝次郎オキタカツジロウの長男として誕生し、幼名は惣次郎ソウジロウ
父を彼が4歳の時に亡くし、母親も幼くして亡くしたといわれている。
彼にはミツとキンと言う2人の姉がおり、ミツは14歳のときに婿を迎え沖田家を相続。
早くに両親を亡くした沖田はこの姉夫婦の元で育ったと思われる。
その後わずか9歳という若さで、天然理心流テンネンリシンリュウの道場「試衛館シエイカン」を開く近藤周斎コンドウシュウサイに入門し、内弟子となる。
ここで沖田は後の新撰組副長である土方歳三ヒジカタトシゾウと出会う。
19歳にて天然理心流の免許皆伝メンキョカイデン
天然理心流で入門から免許皆伝は、普通ならば10年ほどかかるとされており、入門した沖田は9歳であり確かに10年であるが、9歳という若さを考えるとわずか数年で免許に達したという風にも考えられる。
1863年、浪士組ロウシグミ結成に参加して近藤、土方などらと共に上洛ジョウラクし、新撰組となる。



*新撰組
新撰組において沖田は一から十番隊まである新撰組の一番隊の隊長に就任する。
そして芹沢暗殺や、大坂西町奉行所与力ヨリキ内山彦次郎ウチヤマヒコジロウ暗殺などを手がけたともされている。
性格は八木家の次男が書き残した「新撰組遺聞」によると「よく冗談を言っていてほとんど真面目になっていることはなかったといってもいいくらいでした。」と書かれていることからも、陽気な明るい青年だったようだ。
1864年の池田屋事件では、近藤や隊士十数名とともに過激派浪士の取締りのため池田屋を襲撃。
その最中に沖田が昏倒コントウしてしまい、同士によって池田屋から運び出されてしまうという。
これは肺結核のためだという話が多いが、翌年の山南敬助ヤマミナミケイスケの脱走事件で沖田が山南を大津まで追いかけ連れ帰り、介錯カイシャクしたということがあり、そのことを踏まえると沖田が池田屋事件の段階で肺結核を患っていたとは考えにくい。
1867年には沖田の肺結核はしだいに酷くなっていき、師である近藤周斎の容態がおもわしくない時に宛てた手紙には「本来ならば江戸に下ってお見舞いすべきところだが、病気ゆえ何分、心底にあい叶わず候」と記してある。
やがて1868年の鳥羽・伏見トバ・フシミの戦いには負傷した近藤と共に大坂に移っており、戦場に立つことはなかった。



*最後
鳥羽・伏見の戦いの後、沖田は近藤と共に神田和泉橋カンダイズミバシの医学所に入院。
新撰組が甲陽鎮部隊コウヨウチンブタイとして甲府城コウフジョウに向かった際には沖田もこれに動向し、日野の佐藤家に姿を表した。
しかし甲府まで動向することは出来ず、江戸に戻った。
以後は幕臣の松本良順マツモトリョウジュンにより千駄ヶ谷センガダヤの植木屋にて療養をしていたが、1868年に死去。
享年は生年が明確でないため諸説あるが大体25〜27歳くらいとされている。


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