芹沢鴨
新撰組初代局長
1827年?−1863年10月28日
*生まれ&新撰組
常陸国芹沢村の豪族、芹沢氏から発祥し、関ヶ原の戦功により幕臣となり、のちに
水戸藩上席郷土となった芹沢家の三男として生まれた。
諱は
光幹であり、幼名は
玄太。
ただし芹沢の出生には諸説あり、未だに明らかにはされてない。
清河による
浪士上洛に参加の後、思想の違いで清河と別れ、
壬生浪士組の後、それが新撰組となり、芹沢は初代新撰組の局長となった。
剣の腕前は
神道無念流の師範代ほどの腕前であり、学や弁にもすぐれた人物であった。
しかしかなりの乱暴者、アルコール依存症であり、酔うと必ず酒乱となるという性格面に多大な問題のある人物であった。
そのためトラブルもかなり多く、優秀な人材であったが次第に近藤一派の間では芹沢暗殺の話も持ち上がるようになった。
*最後
新撰組に複数の
頭目はいらない。
そう考え始めた近藤らは芹沢暗殺を計画し、近藤は
宴を開き、芹沢をその宴に誘い泥水された。
すっかり泥水した芹沢は、自身の
妾、梅らと八木家に帰りそこで再び宴を催したあと、女達と寝た。
そこに近藤一派である、近藤、土方歳三、沖田総司、藤堂平助ら乗り込み寝ている芹沢の布団の上から刀を突き立て殺害。
その際一緒にいた梅も首を切って斬殺した。