初陣・中国大陸

    
   新鋭十二試戦艦大陸へ飛ぶ
   初の戦いで全機撃墜
    西都への進攻
    長躯、昆明の戦い
        昭和16年の中国戦線 
   

 

 

 

 


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  新鋭十二試艦戦大陸ヘ飛ぶ

 

のちに零式艦上戦闘機となる十二試艦上戦闘機の実用実験が大詰め向えようとしていた頃、航続力が短い九六式艦上戦闘機では中国奥地に進行する陸攻隊を十分に対処することができずに被害が続出していたため航続力の大きな新鋭戦闘機の投入を要望する声が高まった。
   この要望に応えるべく
昭和15年6月十二試艦戦の中国戦線投入が決定し、実用実験中の横須賀海軍航空隊では横山保大尉、進藤三郎尉、白根斐夫中尉、山下小四郎空曹長、東山一郎空曹長をはじめとするベテラン搭乗員が集められ進出準備が開始された。
 そして
7月21日に第一二航空隊に配属された十二試艦戦が漢口基へ向けて進出した。この日は横山大尉の率いる第一陣の6機が横須賀基地を出発した。これに続いてさらに進藤大尉が率いる9機が空輸されて合計15機が漢口基地に揃った。そうして直ちに訓練が開始された。しかし当時十二試艦戦には数々の問題点を抱えていたのですぐに戦闘に投入するには危険であった。そのため内部から空技廠の長野治技術尉、高山捷技術大尉、卯西外次技師らが派遣され、トラブルを一つ一つ解決していった。第一連合航空隊司令官山口多聞小将、第一連合航空隊司令官大西龍治郎少将などの現地部隊の指揮官からは催促が激しく続いたが横山大尉は自信が持てるまでこれを頑としてはね返した。

 

 


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初の戦いで全機撃墜

 その後7月24日、十二試艦戦は零式一号艦上戦闘機一型として正式採用された。
   そして
8月19日、準備万端の状態で初陣の日を迎えた。つまり7月24日の時点で十二試艦戦はれっきとした制式機と認められていたので試作機のまま戦いに臨んだのではけしてない。この日は横山大尉の率いる12機が午前9時5分に漢口基地を出発し54機の陸攻隊と合流し午後2時10分に重慶上空に達したが敵を見ずに終わってしまった。
  翌日
20日進藤大尉以下12機の第2回出撃9月12日の横山大尉以下12機の第3回出撃も敵を見ずに終わってしまった。
     しかし
9月12日には九八式陸偵の写真偵察で戦闘機32機の存在が確認され、零戦隊と陸攻隊の進行を察知して敵戦闘機が退避しているのが明らかになった。k
    翌日
9月13日午前8時30分漢口W基地を出撃した進藤大尉以下13機が午前9時30に宜昌の第21基地に到着し燃料を補給した。正午に第21基地を出発し零戦隊は陸偵に陪州まで誘導され白市駅飛行場上空まできたが敵戦闘機の姿はなかった。午後1時20分、陸攻隊の爆撃が終わると帰還すると見せかけて重慶上空から去った。まもなく残留していた陸偵から予想していたとおり退避していた敵戦闘機が戻ってきたと報告を受けると直ちに反転して重慶へ戻った。そして午後2時、重慶西部に敵戦闘機約30機が出現したと報告を受けると上空から優位な体制でまず10機を撃墜してさらに零戦隊は遠巻きに包囲体制を整えて逃避しようとする残りの敵戦闘機群、I−15,I−16合わせて27機をすべて撃墜した。航続力の大きい零戦ならではの作戦であった。


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成都への進行

 

  その後も零戦隊が重慶が敵戦闘機を全滅させたのを機に、12空零戦隊は九七式艦攻隊や九九式艦爆隊も参戦するなど兵力を増強していった。そして10月4日横山大尉以下8機と陸攻27機とともに成都での初空襲を行い撃墜6機炎上撃破23機という戦果を残した。この日、戦爆連合は成都上空へ進み、陸攻隊は成都の軍事施設へ爆撃し、零戦隊は敵飛行場である太平寺飛行場へ8機空襲した。零戦隊は4機が強行着陸をし零戦から降りた4人のパイロットは敵機に火を付けようとするが敵からの攻撃が激しいため諦らめて自機に戻って離陸した。その間4機は援護射撃をし、再び8機に戻ると機銃攻撃で敵機19機を炎上させ4機に大きな損害を与えるという冒険をした。10月5日には零戦が7機前日に続き成都に進攻し鳳凰山飛行場を襲って大型機6機と小型機4機と大小14機の囮機も炎上さた。そして10月26日には飯田大尉以下8機が成都方面に進行し成都西南で敵機と交戦し全機を撃墜した零戦側は被害はなかった。それから15年も終わろうとした12月30日横山大尉以下の12機が成都を襲い鳳凰山、太平寺、双流、温江などの飛行場を銃撃し33機を撃破して、零戦隊は2機が被弾しただけで全機無事帰還した。

 

 

 


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長躯、昆明の戦い

15年9月、華南の第14航空隊に零戦9機が配属された。それから14空艦戦隊は北部仏印進駐によって使用が可能となったためハノイに進出した。そして10月7日、小福田租大尉以下7機はハノイを出発し陸攻隊と共に昆明まで630kmを2時間かけて行き敵戦闘機14機を撃墜させた。さらに12月12日零戦7機が陸偵2機の誘導で長躯の詳雲飛行場を襲い在地機22機を撃破した。12月13日には零戦2機が陸偵1機、陸攻27機、艦爆9機と共に昆明北部の兵工廠を攻撃した。

初陣から年末までの戦果

 出撃−22回    参加機数−述べ153機

 撃墜−59機    地上撃破−101機

 被弾−13機    損失  −0機



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昭和16年の中国戦線
           

その後も12空零戦隊は16年の夏まで重慶、成都さらに奥地の天水、南?、広元まで活動範囲を広げた。以後8月までの戦いは資料     によっては多少差があるが以下のようになっている。

           16年8月までの主な戦い
   3月14日     零戦21機が成都方面に進攻
         3月18日   艦攻隊と磁気口飛行場(重慶)攻撃
   3月20日  艦攻隊と遂寧飛行場攻撃
   4月29日  山下空曹長、坂井三郎一空曹、中瀬一空曹らが重慶攻撃
   5月03日  陸攻隊54機と重慶攻撃
   5月09日  陸攻隊と重慶攻撃
   5月16日  陸攻隊54機と重慶攻撃
   5月20日  飛行隊長眞木成一大尉以下40機が成都を襲う
   5月21日  分隊長鈴木大尉以下21機が蘭州攻撃
   5月22日  零戦17機が成都飛行場を攻撃
   5月26日  零戦9機が南鄭天水方面に進攻
   5月27日  陸攻隊と蘭州、?陽を攻撃
   6月10日  陸攻隊と重慶、磁気口を攻撃
   6月18日  陸攻隊と蘭州を攻撃
   6月22日  陸攻隊54機と蘭州、成都を攻撃
   6月23日  陸攻隊54機と成都、宜賓を攻撃
   7月27日  陸攻隊と重慶攻撃
   8月11日  『オ号作戦』
   9月15日  12空14空解隊                    

 最初に零戦を失ったのは5月20日のことで成都上空で12空の木村英一一空曹機が撃墜されたもので木村英一空曹が零戦で最初の戦死した搭乗員となった。2人目は6月23日の蘭州強行偵察の時に対空砲火で撃墜された12空の小林喜四郎一等航空兵であった。
 そして16年9月15日、12空14空は解隊した。この間の戦果は撃墜103機、地上撃破163機に達し零戦の投入により陸攻隊の被害は激減した。また零戦隊の被害は地上砲火により3機を失ったのみであった。デビューして1年、艦戦用として作られた零戦は陸上戦闘機として活躍をし長距離陸上進攻で連続して活躍した。
 このことは世界戦闘機史上においても快挙であった。

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