イギリスは、15世紀前半にジョン・ダンスタブルやライオネル・パウアーらによって、
ヨーロッパの音楽に大きな影響を与えましたが、その後はバラ戦争(1455-85)などの国内の内紛によって
音楽の発展は停滞してしまいました。
イギリスの音楽に復興の兆しが見えるようになるのは、ヘンリー8世の治世(1509-47在位)に入ってからのことです。
ヘンリー8世はしばしば重臣達と重唱を楽しみ、楽器の厖大なコレクションを持ち、
また、自身で作曲も行うほどの音楽愛好家だったと言われています。
16世紀初頭の代表的な作曲家としては、
世俗歌曲とモテットの両方に傑出していたウィリアム・コーニッシュ(1465-1523)、
ミサ曲や他のポリフォニーによる宗教曲を書いたロバート・フェアファクス(1464?-1521)・ジョン・タヴァナー(1495?-1545)
達があげられます。
初期テューダー王朝の宗教曲を伝える貴重な資料である、
イートン聖歌隊本(Eton Choirbook イートン・クヮイアブック)に
残されている彼らの作品は、5声ないし6声の厚い響きと、ソリストと合唱の対比、
美しく表情に富んだ長いメリスマなどを特徴としています。
ジョン・タヴァナーは独特の叙情性を持ったポリフォニー作品を生みだしていますが、
特に同名のグレゴリを聖歌を定旋律(素材)に構成された、6声のミサ曲
《Gloria tibi trinitas グロリア・ティビ・トリニタス》が有名です。
特にこのミサ曲のベネディクトゥスの後半の
《in nomine Domini イン・ノミネ・ドミニ》(主の御名において)の部分だけが独立して、
別の英語の歌詞で歌われたり、独奏や合奏用の器楽曲として好んで編曲されるようになりました。
イギリスでは17世紀の末のヘンリー・パーセルの時代まで、
多数の《In nomine イン・ノミネ》と呼ばれる器楽曲が作られましたが、
それらはすべてタヴァナーのミサ曲の《イン・ノミネ》をモデルにしています。
ところで、ヘンリー8世は、統治のはじめはカトリックの擁護者をもって自らを任じていました。しかし、その後、
離婚問題を巡ってローマ教皇と対立し、ついには1534年に「首長令」を発してローマ教会から分離し、
新たに英国国教を成立させます。
その後、メアリー女王(1553-58在位)の統治下に一時ローマ・カトリックに戻りますが、
エリザベス1世(1558-1603在位)は「礼拝統一法」によってイギリス国教会に統一され、
一応の安定期に入ることになります。
このように、政治的状況からイギリスの宗教はプロテスタントとカトリックの間を揺れ動きましたが、
これがイギリスの宗教音楽に大きな影響を与えました。
国教会の最初は、典礼もラテン語のままでしたが、次第に英語による典礼が一般化し、
イギリスは独自の礼拝形式と、それに伴う教会音楽を生み出すことになり、
また一方では、エリザベス1世が比較的カトリックに対して寛容な政策をとったこともあって
カトリック礼拝のための音楽も少数ながら作曲され続けました。
16世紀中頃は、クリストファー・タイ(1505?-1572?)、トマス・タリス(1505?-1585)、
ジョン・シェパード(1515?-1559?)、ロバート・ホワイト(1538?-1574)らがすぐれた宗教曲を生み出しています。
彼らの多くは、ラテン語によるミサ曲、モテトゥス、エレミアの哀歌、英語による詩篇歌、
サーヴィス(礼拝曲)、アンセム(礼拝曲)など、カトリック教会と国教会の双方のために作品を残しました。
イギリス国教会の音楽の主要な形式がサーヴィス<Service>とアンセム<anthem>です。
サーヴィスとは、早祷式<Morning Prayer>と晩祷式<Evening
Prayer>
(それぞれ、ローマカトリックの朝課と晩課に相当する)と
聖餐式<Holy Communion>(ローマ・カトリックのミサに相当する)の礼拝のための音楽です。
大聖堂や大学の聖歌隊によって日々用いられる小規模なものをショート・サーヴィス<Short
Service>、
主要な祭日用のためのより大規模で複雑なものをグレート・サーヴィス<Great
Service> と呼んでいます。
英語によるアンセムは、ラテン語によるモテットに相当する国教会の礼拝で歌われる合唱曲を指します。
独唱や重唱の部分を含むものをヴァース・アンセム
verse anthem と呼んで、
合唱だけのル・アンセム full anthem と区別されました。
タイやタリスは主としてラテン語による宗教音楽に力を入れましたが、
イギリス国教会音楽にも少なからず貢献をしました。
特にタリスは、ヘンリー8世の後のエドワード6世(1547-53在位)の時代にアンセムの作曲を行い、
アンセムの作曲者としては実質上の最初の人間と言われています。
16世紀後半から17世紀のはじめにかけては、ウィリアム・バード(1543-1623)やオーランド・ギボンズ(1583-1625)、
トマス・ウィールクス(1575?-1623)、トマス・トムキンズ(1572-1656)などが質の高い宗教音楽を生み出しています。
特にウィリアム・バードは、王室礼拝堂の一員として活躍しながらも、
カトリックの教義を捨てなかったローマ・カトリックの音楽家でしたが、
彼の作曲したギリス国教会用の5つのグレート・サーヴィスは、
このジャンルの音楽の最も優れた作品のひとつです。
このように、ヘンリー8世からエリザベス1世までのテューダー王朝のイギリスは、
宗教的に非常に不安定な時代でしたが、その不安定さが、かえって
ローマ・カトリックとイギリス国教会の両方の宗派が入り乱れた、
「百花繚乱」とも言える作品群を形づくることになったのでした。
エリザベス1世の時代は、世俗歌曲の分野でもめざましい発展のあった時代でした。
特に、1588年にニコラス・ヤングがイタリアのマドリガーレを英語訳した
「ムジカ・トランサルピーナ(アルプスの彼方の音楽)」が出版され、
イタリアのマレンツィオやパレストリーナの作品が熱狂的に歓迎されて以降、
イギリスの作曲達によって多数の英語によるマドリガルやバレットが作曲されました。
トマス・モーリー(1557-1602)、ジャイルズ・ファーナビー(1563?-1640)、
トマス・トムキンズ、トマス・ウィールクス、オーランド・ギボンズらが生み出した
イギリス・マドリガルは、現在も広く歌われています。
彼らの中でも最も早い時期の作曲家であり、最も多作でもあったトマス・モーリーは、
明るくて軽い、とても魅力的なマドリガル(マドリガーレの英語読み)やバレットを多く残しました。
彼のバレットは、イタリアのガストルディのバレットを手本としたものですが、
それをイギリスの風土に同化させ、英語の特性にかなった音楽として再生しています。
エリザベス王朝気のマドリガルのアンソロジーとして注目すべきものに、
1061年に出版された《オリアーナの勝利 the
Triumphes of Oriana》があります。
これはエリザベス1世に献呈するために多くの作曲家から寄せられた、
5〜6声のマドリガルをモーリーが編纂したものですが、すべての曲が
「美しいオリアーナ(ここではエリザベス1世に示す)万歳
Long live fair Oriana」ということばで終わっています。
当時のメリー・イングランドの雰囲気を端的に表した作品集と言えるでしょう。
モーリーの作品に代表されるように、イギリスのマドリガルは
民謡風の親しみやすい旋律と軽快なリズム感が特徴的で、
イタリアのマドリガーレの深刻で内証的な表現は意識的に避けられています。
この違いは、イタリアのマドリガーレが宮廷人や人文主義者を中心とした
通人のための音楽であったのに対し、イギリス・マドリガルはフランスのシャンソンと同様に、
当時台頭しつつあった、中流階級の市民のための音楽として
発展していったからだと言えるのではないでしょうか。
1600年代初頭にマドリガルが衰退するとともに、
リュートやヴィオラ・ダ・ガンバの伴奏付きの独唱歌曲が広く愛好されるようになります。
特にリュート歌曲はエア<air>と呼ばれ、
トマス・キャンピオン(1567-1620)、ジョン・ダウランド(1562-1626)らが多くの作品を作曲しています。
中でも、リュート奏者としてフランス、ドイツ、デンマークなどでも活躍したダウランドの曲は、
甘美で叙情的な旋律と歌詞の独特の語り口で独自の世界を作り上げています。
エリザベス時代の人々に最も良く知られたダウランドのリュート歌曲は、
1600年に出版された歌曲集第2巻の中の《流れよ、わが涙
Flow, my tears》でした。
メランコリーに満ちたはこの歌はイギリスのみならず大陸でも広く愛唱され、
多くの替え歌や編曲された器楽曲などが生み出されることになりました。
また、リュート歌曲はかのシェークスピアの「オセロ」の中の《柳の歌》のように、
当時のイギリス演劇に劇中歌として取り入れられ、
その劇的な効果を高める役割を果たしています。
当時の演劇は一種の音楽劇の性格を持っていて、独唱やリュート独奏、器楽合奏などが随所に散りばめられ、
劇の不可欠な要素となっていたのでした。
器楽音楽についても、ルネサンス期のイギリスの発展は目覚ましいものがありました。
特にヴァージナル<Virginal>と呼ばれる小型のチェンバロが愛好され、
オルガンも中世以来広く普及していました。これらの鍵盤楽器のための多数の曲が、
「フィッツ・ウィリアム・ヴァージナル曲集」「ネヴェル夫人の曲集」などの筆写楽譜や
「パーセニア」などの印刷楽譜(1611出版)として残されています。
作曲者たちはヴァージナリスト<virginalist>と呼ばれ、顔ぶれは声楽の分野とほぼ重なり、
タリス、バード、ファーナービー、ギボンズ、ジョン・ブル(1562?-1628)などの活躍が目立ちます。
曲の特徴としては、短く単純な歌謡調の旋律を途切れることなく、
5〜20以上の変奏として次々に演奏していくというもので、
イギリスは、スペインと並んで変奏形式を早くから発達させた国でした。
こうしたイギリス鍵盤楽曲は、北ヨーロッパの音楽に広く影響を与えています。
ほぼ同時代のオランダのスヴェーリンク(1562-1621)のオルガン曲の中には、
イギリスのヴァージナル曲の影響を受けたと思われるものや、
直接に編曲したものなどが多く存在しています。
つまり、イギリスのヴァージナル曲は、バロック期の鍵盤音楽技法を基礎づける要素のひとつとなったと言えるでしょう。
また、各種の楽器のための合奏曲も、この時代のイギリスでは多数作曲されています。合奏のことをコンソート<consort>と言いますが、
16〜17世紀のイギリスでは、同種の楽器を組み合わせた合奏をフル・コンソート<full
consort>、
異種の楽器を組み合わせた合奏をブロークン・コンソート<broken
consort>というように区別して呼んでいました。
特にこの時代は、大小のヴィオールを組み合わせたフル・コンソートが広く好まれていたようです。
先に述べたダウランドの《流れよ、わが涙》は、
もともとリュート独奏曲として作曲されたものを歌曲に編曲したという説が有力ですが、
ここから《涙のパヴァーヌ Pavana Lachrymae》という題を持つ一連の器楽合奏曲として、
ダウランド自身の手によって編曲されました。
この《涙のパヴァーヌ》を7連作を収めた曲集『ラクリメ(涙)』(1605年出版)も、
5種類のヴィオールとリュートのための合奏曲集だったのです。
その他のイギリスの『音楽家』たち
・イギリス人がパーセル以来の作曲家と称する エルガー<Sir
Edward Elgar>(1857-1934)
・ブルッフやラヴェルに師事した ヴォーン・ウィリアムズ<Ralph
Vaughan Williams>(1872-1958)
・管弦楽組曲≪遊星(プラネット)≫で知られる ホルスト<Gustav
Theodore Holst>(1874-1934)
・個性的で穏健重厚な作風の スコット<Cyrill
Meir Scott>(1879-1958)
・ヴィオラ奏者や指揮者でもあった ブリッジ<Franck
Bridge>(1879-1941)
・≪キャプリオール≫組曲で知られている ワーロック<Peter
Warlock (本名 Philip Heseltine)>(1894-1930)
・スコットやヴォーン・ウィリアムズらの弟子の ラップラー<Edmund
Rubbra>(1901-1989)
・オーケストラの≪ポーツマス・ポイント≫などで国際的に知名度の高い ウォルトン<Sir
William Waiton>(1902-1983)
・女流の実力者として有名な リューティエンス<Elizabeth
lutyens>(1906-1978)
・オペラやバレエ音楽で活躍した バークレー<Lennox
Berkeley>(1903-1959) や ランバート<Constant
Lambert>(1905-1951)
などがあげられます。
また、
・オペラ≪ピーター・グライムズ≫が絶賛された ブリトゥン<Benjamin
Britten>(1913-1976)
彼の,能の≪隅田川≫によるオペラ≪カーリュー・リバー≫や、≪戦争レクイエム≫などは話題を呼んだといいます。
・・・歴史の中では・・・
1934/02/23,昭和9/02/23
エルガー(Elgar,Edward)没。76歳(誕生:1857/06/02)。イギリスの作曲家。
1934/05/25,昭和9/05/25
ホルスト(Holst,Gustav)没。59歳(誕生:1874/09/21)。イギリスの作曲家。
1959/11/26,昭和34/11/26
ケテルビー(Ketelbey,Albert)没。84歳(誕生:1875/08/09)。イギリスの作曲家。
1976/12/04,昭和51/12/04
ブリテン(Britten,Benjamin)没。63歳(誕生:1913/11/22)。イギリスの作曲家。
1983/03/08,昭和58/03/08
ウォルトン(Walton,William)没。80歳(誕生:1902/03/29)。イギリスの作曲家。