安達が原の鬼婆

奥州安達が原(今の福島県二本松市)には今も鬼婆の死体を埋めたという黒塚の遺跡が残されており、この地にかつて棲んでいたとされている鬼婆の存在を裏付けている。では、この鬼婆とはどのようなものだったのか。それをお話しよう。

「ある時、供の者と一緒に托鉢行脚の旅をしていた僧・祐慶が、安達が原で行き暮れて、侘びしい一つ家を尋ねた。祐慶が泊めてくれと頼むと、そこに住んでいた老婆は「粗末な小屋だから」と断るが、祐慶の執拗さに折れて、結局一夜の宿を提供する。この老婆が実は鬼婆なのだが、恐ろしい鬼婆の姿ではなかったし、糸繰車を回して麻糸を操る仕事などをしていたので、さすがの祐慶もそれが鬼婆だとはしばらくの間は気づかなかったのである。が、夜も更けてあたりが冷え込んできたころのことだ。老婆は焚火のための木を山に取りに行くといい、「寝室の中だけは覗いてはいけない」と繰り返し念を押して、家を出ていった。しかし、見るなといわれると見たくなるのが人情で、祐慶が止めたにもかかわらず供の者がその寝室を覗くと、恐ろしいことに寝室の中は人間の死体が山のように満ち満ち、膿や血や腐肉がぐちゃぐちゃになって悪臭を放っていて、正視に耐えない状態だったのだ。もちろん、2人は逃げ出した。しかし、しばらくすると2人の後ろからついに正体を現わした鬼婆が追って来たのである。しかも、そのとき突然あたりには雨風が吹き荒れ始め、鬼婆は「一口に喰ってやろう」といって2人を襲った。ここからが物語の大団円で祐慶の祈とうと鬼婆の戦いが始まるが、結果は祐慶の勝ち。鬼婆は嵐の音に紛れて消えてしまったという。」(日本妖怪博物館)。

この話だけではこの鬼婆がなぜ安達が原に棲みつき鬼婆となったのか分からない。しかしこの鬼婆、実は非常に悲しい過去をもっているのだ。それはこの話とは別に残されている由来譚から知ることが出来る。それによると、鬼婆はもとは岩手という名の普通の女で、京都の公家屋敷に乳母として奉公していたという。ところがある時岩手が世話をしていた姫が重い病気にかかり、妊婦の腹の中にいる赤子の生き肝を飲ませるしかないと陰陽師に宣告された。そこで岩手は姫のために日本各地を旅してまわることになった。しかし妊婦を殺すなどなかなか出来ることではなく、困り果てた岩手はいつしか安達が原の岩屋に住み着くようになった。そしてそれから数年後、お腹の大きな妊婦とその夫が岩手のもとに一夜の宿を求めてきた。ところが突然その妊婦が産気付いたため、夫は産婆を呼びに出ていってしまったのだ。こうして妊婦と2人きりとなった岩手は、これは千載一遇の機会とばかりに妊婦を襲い、念願の赤子の生き肝を手に入れることに成功した。しかし、このとき今にも死にそうな女が「自分は幼いころ京都で別れた母を捜して旅をしている」と自分の身の上を語った。岩手がはっとして女の持ち物を調べると、そこに自分がかつて娘にあげたお守りが入っているのを見つける。そう、この妊婦は岩手の実の娘であり、岩手は自分の娘と孫を殺してしまったのである。それを知った岩手は気が狂ってしまい、以来旅人を襲っては喰うという鬼婆になってしまったのである。

 

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