さまざまな疑問をQ&Aにしてみました。
Q なぜ地下壕が広島城の石垣の中に造られたのか? A 敵の飛行機から発見されにくい。 空爆に耐えられる。 また、 明治時代から広島城は大本営や師団が置かれるなど軍事的に 重要な場所であった。 |
Q 地下壕はいつ造られたのか? A 戦局が厳しくなった1944(昭和19)年、終戦の前年に造られた。 本土決戦に備える意味もあったのではないだろうか。 生徒達は 約4ヶ月ここで働いた。 |
Q 中国軍管区司令部はいつできたのか? A 終戦の年の6月15日、広島師団司令部が格上げされてできた。 中国地方の軍管区司令部はそれまで大阪の軍司令部が担当し ていた。 |
Q なぜ生徒が司令部で働くことになったのか? A 生徒の父親の多くが陸軍の高級軍人で、その子どもなら安心して 仕事を任せられると思われた。 当時、生徒の通う女学校は陸軍 の親睦団体である偕行社(かいこうしゃ)附属の学校だった。 |
Q 仕事中はどんな服を着ていたのか? A 支給されたグレーのシャツを着た。 白色は目立つので敵機から発 見されやすく、着てはならなかった。 下はもんぺをはいていた。 |
Q 働くことで何らかの報酬はあったのか? A 金銭的なものは全くなかった。 たまにお菓子がもらえた。 他校の 生徒は工場などで働いており、指令部で働けることは相当の誇りで あった。 |
Q 生徒はどこに寝泊りしていたのか? 家には帰れたのか? A 地下壕から少し離れた所に木造の宿舎があった。 食事は炊事専 門の兵隊がおり、作る必要はなかった。 3日に一度帰宅すること が許されていた。 |
Q 生徒は学校に行っていたのか? A 上級生は開戦当初は月に2、3回の勤労奉仕があった位だったが、 終戦の年は学校どころではなくなった。 1、2年生は通学していた ようである。 |
Q 岡さんや荒木さんは地下壕の中にいたにもかかわらずなぜ意識を 失うくらい吹き飛ばされたのか? A 壕の小さな窓から爆風が入った。 それだけ原爆の威力はすごか った。 鼓膜が破れた生徒もいた。 |
Q なぜ原爆投下にもかかわらず、電話が通じたのか? A 全く資料が見つからなかった。 おそらく電話線は広島城付近は地 中に埋められていたのではないだろうか。 しかし、無線を使ってい たことも考えられる。全く不明である。 どちらにせよ、福岡と福山 に連絡がとれたのは事実である。 被爆後に米軍が撮影した写真 をみると、地下壕のすぐ近くに鉄塔が建っていた。 この鉄塔が何 らかの通信に関係していたのは間違いないであろう。 |
Q 岡さんと荒木さんは原爆投下後はどんな仕事をしていたか? A 部屋の中の機械は壊れていたが、原爆投下後広島に来た将校が 通信機器を設置し、なんとか通信していた。 宿舎は焼け落ちてい たため壕の中の机の上で寝起きした。 2人は8月18日の動員学 徒の解散式まで働いた。 通信の仕事より、被爆した人の介護で 大変だった。 |
Q 岡さんや荒木さん以外の他の生徒は原爆投下後どうしたのか? A 広島城の北2Kmの所にある牛田のお寺(不動院)が避難場所にな っていたので、とりあえずそこをめざした。 その避難も命がけのも のであった。 |
Q 現在、地下壕の中に入れるのか? A 鍵がかけられており、自由に入ることはできない。広島市役所の許 可があれば入ることができる。 |
Q このホームページはだれが作ったのか。 A 比治山女子高校の教員がチームを作って作成しました。 岡さんは 数年間、比治山女子高校で戦争体験の講演をされていました。 その講演に感銘を受けたことがこのホームページを作るきっかけに なりました。 |