戦後復興期
1945~1950年
1951~1956年
東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)(1945年8月17日~1945年10月9日 54日 皇族中心)
このやたらと難しい名前の人は戦後初の皇族の首相だよ。
終戦後の困難な社会情勢を立て直すために皇族として抜擢されたんだけど、GHQ(戦後日本を占領した軍の司令部)と馬が合わなくてわずか54日で内閣が崩壊してしまったんだ。
ちなみにこの人の在任期間は総理大臣史上最短となっているよ。
幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)(1945年10月9日~1946年5月22日 226日 無所属)
戦後処理の為に奔走した総理大臣で、GHQのマッカーサー司令官により提示された
1.女性にも政治に参加する権利を与えること
2.労働組合の結成
3.教育の内容を政府が管理するのをやめること
4.国民の主張を押さえつける制度をなくすこと
5.経済の仕組みの民主化を推し進めること
6.憲法の改正
等の問題に取り組んだんだ。
GHQと草案をやりとりして、憲法の大本を作ったりと、戦後直後の混迷期の日本を立て直す為に尽力した人だよ。
吉田茂(第一次:1946年5月22日~1947年5月24日 第二次:1948年10月15日~1949年2月16日 第三次:1949年2月16日~1952年10月30日 第四次:1952年10月30日~1953年5月21日 第五次:1953年5月21日~1954年12月10日 2716日 自由党、現:自民党)
首相在職期間2616日は史上4位で、戦後では佐藤栄作に次ぐ2位になっていて、内閣は五次まで続き、組閣数では総理大臣史上1位と、長きに渡り強烈なリーダーシップを発揮した人だよ。
第一次吉田内閣では、憲法の「主権を誰に置くか」「天皇の象徴性」「『戦争放棄』をどうとらえるか」といった難しい問題に忙殺されながらも、憲法の公布(1946,11,3)と施行(1947,5,3)にこぎつけ、第二次内閣以降も講話条約や安全保障条約の締結に全力を注いだりと、優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立てたんだ。
しかし、1950年台に入ると人気に陰りが見えてくる。この頃、安定しない日本情勢の中では様々な不穏な出来事が多発し、社会不安が発生したんだ。このような状況と朝鮮戦争が起きる危険から、GHQは警察予備隊(その後の自衛隊だよ)をつくって、占領を解除して日本を独立国家とする対日講話を進めたんだ。
それで、1951年9月8日、サンフランシスコで対日講話条約(アメリカを中心とする連合軍が占領をやめ、日本との太平洋戦争を「本当」に終わらせるための条約)と日米安保条約の調印式が行われた。しかし、この日米安保条約は日本国内に米軍が駐留出来るようにする条約だった。世論は日本がアメリカの戦争に巻き込まれるのではないかと反発して、吉田内閣の人気は落ちていってしまったんだ。
片山哲(かたやま てつ)(1947年5月24日~1948年3月10日 292日 民主社会党、現:社民党)
日本初の社会党首相内閣として誕生し、日本の保守化を好まないGHQに期待されたんだけど、経済面でインフレを抑えることが出来ず辞職に追い込まれてしまったんだ。
芦田均(あしだ ひとし)(1948年3月10日~1948年10月15日 220日 民主社会党)
社会党を中心とした革新的な内閣だったんだけど、1948年6月、贈収賄(賄賂の受け渡し)汚職事件である昭和電工事件での閣僚や政府高官の逮捕により、発足半年ほどで内閣総辞職したんだ。
鳩山一郎(はとやま いちろう)(第一次:1954年12月10日~1955年3月19日 第二次:1955年3月19日~1955年11月22日 第三次:1955年11月22日~1956年12月23日 745日 民主党、現:自民党)
第5次吉田内閣が内閣改造の為にいったん総辞職する前の11月24日、日本民主党を立ち上げてその総裁になり、自由党を分裂させて強制的に総辞職に追い込んだ。
この時吉田茂は大臣を入れ替え第6次内閣を作ろうとしており、鳩山に裏をかかれた形になった。……その後の二人の仲の悪さはとても有名だよ。
内閣を作った後は、吉田のアメリカ中心の外交から一転して、日ソ国交回復文書に調印して懸案だったソ連との国交を回復したりと、外交に力を入れたんだ。
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