平成不況

1991~2000年

宮沢喜一(みやざわ きいち)(1991年11月5日~1993年8月9日 644日 自民党)

大蔵省出身で財政、経済に精通する宮沢は「生活大国作り」を打ち出したんだ。
経済の回復を国民から期待されていたんだけど、経済は悪化して行き……、中小企業の倒産や銀行の不良債権(会社が破産したために回収できなくなった貸付金)問題などに繋がる原因となってしまったんだ。

その後も「間違いなく政治改革を断行する」といいながらも実行できず、「ウソつき解散」として内閣不信任案を可決されてしまったんだ。これが自民党と民主党の二大政党による55年体制の終わりを招くことになるんだ。

細川護煕(ほそかわ もりひろ)(1993年8月9日~1994年4月28日 263日 日本新党)
非自民・八党連合から首相として選ばれた。スキャンダルや政治問題にまみれた自民党とは縁のないこの政権は発足当時には7割という高い支持率を誇ったんだよ。

しかし、消費税を廃止して新たに7%の「国民福祉税」とする政策を、連立を組む他党の了承を得ずにいきなり発表するなど八党の意見にまとまりがなく、「ガラス細工」政権と呼ばれてしまったんだ。
しかし、歴代首相として初めて太平洋戦争を「侵略戦争」「間違いがあった戦争」と認めるなど短い期間ながらも細川自身のユニークさも手伝って一定の成果を上げることは出来たんだ。

羽田孜(はた つとむ)(1994年4月28日~1994年6月30日 64日 新生党)

新生党からの首相となったんだけれど、社会党が連立政権から離党して少数与党になったので、政権奪還を目指す自民党に揺さぶりをかけられて辞職したんだ。

村山富市(むらやま とみいち)(1994年6月30日~1996年1月11日 561日 民主社会党)

閣僚経験がないまま首相となった「庶民派」の首相だ。庶民的な行動で国民から親しみを持たれていたんだけど、阪神・淡路大震災(1995年1月17日に発生したM7.3の地震。東日本大震災に次ぐ犠牲者{6434人}を出した)における対応の遅れ、オウム真理教(1990年代に台頭した新興宗教。多くのテロ事件を起こした)による地下鉄サリン事件(猛毒ガスであるサリンを使用し一般市民を標的とした無差別テロ事件)を事前に防げなかったことで国民に悪い印象を与えてしまったんだ。
参院選における社会党の大敗の責任を取って辞職した。

橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう)(第一次:1996年1月11日~1996年11月7日 第二次:1996年11月7日~1998年7月30日 932日 自民党)

「一年以内に基地問題を解決するのが自民党の使命」などと米軍基地問題の解決に意欲をみせ、就任二ヶ月で普天間基地の全面返還の約束をクリントン大統領と取り付ける成果を上げたんだ。

消費税を5%にしたり、医療費の値上げに踏み切るなど経済面でも強気な姿勢をみせたんだ。愛称の「橋龍」や「ポマード頭」などのトレードマークで国民から愛され、高い支持率を維持し続けたんだよ。
だけど、ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行を総務長官にするなどして不評を買ってしまい、その後の選挙で大敗した責任を取り辞職したんだ。

小渕恵三(おぶち けいぞう)(1998年7月30日~2000年4月5日 616日 自民党)

就任した当時は「平成」の元号を発表したこと以外よく知られておらず、「凡人」「冷めたピザ」(”Obuchi has all the pizzazz of a cold pizza."{小渕は冷めたピザのように活気がない}と米紙・ニューヨークタイムズに書かれたことに由来)などと呼ばれてしまっていたよ。
就任した後は情報公開法、通信傍受法(組織犯罪を防ぐために通信{電話、PHS、FAX、インターネット}をキャッチする法律)、介護保険制度、そして今でも物議を醸している国旗・国歌法などを定めるなど精力的に活動したんだけど、 新しい改革に着手しようとした矢先に不運にも脳梗塞で入院して総辞職したんだ。

森喜朗(もり よしろう)(2000年4月5日~2000年7月4日 2000年7月4日~2001年4月26日 387日 自民党)

自民党幹部五人が密室会談のなかで小渕の後任として決定したと言われている首相で、初めから国民の信用は全くなかったんだ。
演説は得意だったけど、「神の国」「国体」「無党派層は投票に行かず寝てほしい」などの失言を繰り返して、さらに非難が集中したんだ。
「えひめ丸」衝突事件(愛媛県宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」がハワイ・オアフ沖で浮上してきた米海軍の原潜「グリーンビル」に衝突、沈没した事件)の最中にゴルフをしていたことや警察の不都合な事件などで大打撃を受けて、結局ほぼ何も出来ないまま辞任したんだ。