高度経済成長期
1951~1960年
1961~1970年
1971~1974年
石橋湛山(いしばし たんざん)(1956年12月23日~1957年2月25日 65日 自民党)
「一億減税」や「中国貿易拡大」のような政策を打ち出して、期待を集めたんだけど、実施の前に急性肺炎に倒れてしまって、わずか65日で退陣してしまったんだ。
岸信介(きし のぶすけ)(第一次:1957年2月25日~1958年6月12日 第二次:1958年6月12日~1960年7月19日 769日 自民党)
石橋首相が病に倒れると臨時首相代理となり、石橋首相の退陣後、衆参両院で正式に首相に指名されたんだ。
日米安保条約をアメリカにへりくだった内容から脱却するために憲法の改正や防衛力の強化を試みたんだけど、安保改定条約に調印するとデモ隊と社会党の抵抗により世論は「安保反対」の声で大荒れ、国会の審議は停滞してしまった。
大騒動が続く中、政府は自動的に条約改定が成立する6月19日まで耐え続け、岸は安保改定が承認されるのを見届けて総辞職したんだ。
池田勇人(いけだ はやと)(第一次:1960年7月19日~1960年12月8日 第二次:1960年12月8日~1963年12月9日 第三次:1963年12月9日~1964年11月9日 1575日 自民党)
「所得倍増計画」を打ち出し、「池田はウソをつかない」のキャッチコピーで人気が急上昇したんだ。
この「所得倍増計画」っていうのは、3年間の成長率を9%として10年後には国内総生産(GNP)を2倍にするというものなんだけど、これが経済に大幅な設備投資を生みだしてしまって、物価が上昇し、貿易収支は大幅赤字となってしまったんだ。
それで1964年に、咽頭がんと診断されたこともあり、11月9日に総辞職した。
佐藤栄作(さとう えいさく)(第一次:1964年11月9日~1967年2月17日 第二次:1967年2月17日~1970年1月14日 第三次:1970年1月14日~1972年7月7日 2798日 自民党)
外交問題に対して長きに渡ってリーダーシップを発揮し、国民からの信頼も厚く、戦後最も長く首相を務めた人だよ。
佐藤内閣はまず、沖縄諸島の返還を目標として、1965年1月10日に渡米してジョンソン大統領と会談し日米間の関係強化を確認したんだ。また、不況対策として国債(国が民間人や企業から期間と利息を定めて借りる借金)を発行し、これにより「イザナギ景気」とよばれる好景気も生み出したんだよ。
第2次内閣の政策課題もまた沖縄で、1967年11月12日から20日まで再度渡米し、ジョンソン大統領と会談した。この会談で、小笠原諸島が1年以内に返還されることが決まったんだ。
1969年になると、再び沖縄返還交渉に力を入れ、佐藤はニクソン大統領と会談した末「1972年中に沖縄を返還するよう協議を進める」ことが決定したんだ。そして1972年5月、ついに沖縄は返還されたんだ。
また、同年非核三原則(「核をつくらない」「核を持たない」「核を持ち込まない」の三原則)を発表して、後の1974年12月、世界平和に役立ったことを理由にノーベル平和賞が贈られたんだ。
田中角栄(たなか かくえい)(第一次:1972年7月7日~1972年12月22日 第二次:1972年12月22日~1974年12月9日 886日 自民党)
このころ、中国の代表がそれまでの中華民国から中華人民共和国に移り、日本は中華民国を「中国」としていたため、交渉をし直して国交を回復する必要が発生してしまったんだ。
それで、田中は1972年9月25日に訪中し、首都北京で周恩来首相や毛沢東国家主席と会談して、日中共同声明を締結させたんだ。
また、「日本列島改造計画」を推進したんだ。これは、
1.新幹線と高速道路を広げ、全国をヒトと物の流れを促す
2.工場を地方移転させ、地域の活性化を推進する
3.地方の生活環境作り というもので一世を風靡したんだよ。
だけど、地価が値上がりし、それが物価高の上昇にも繋がってしまったんだ。しかも、1973年に起こった第四次中東戦争がオイルショックを引き起こし、さらに物価が上昇してしまった事もあり、責任をとって辞職したんだ。
その後、1976年にロッキード事件(アメリカの航空機大手のロッキード社による世界規模の汚職事件。多くの政府高官・大企業の重役が逮捕された)で賄賂を受け取ったとして逮捕されたんだけど、その後も大きな影響力で政界を支配し続け「闇将軍」と呼ばれたんだ。
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