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現在世界のどこの国でも必ず法律が設けられています。しかし、その法律に対する見解は東洋と西洋では対照的です。西洋では法律のように人を規則でまとめることは良いことだと思われているのに対し、東洋では国民をまとめるために仕方なく法律を設けてはいるものの、本来なら規則で人を縛ることは好ましく思われていません。 たとえば、古代中国の教えに「法家」というものがあります。法家は周の戦国時代に韓非や商鞅などを中心に平和を取り戻すために作られた教えですが、これは「本当は人が良心に従うことで平和が達成できればいいが、それが不可能ならば、ルールと罰則で秩序をつくるしかない」という非常に消極的な思想です。 この頃から東洋では法はネガティブなイメージを持っており、初めて中国で法を採用するときも反対論が多く見られました。人に決められたルールだけを守っていては自分で考えなくなったり、ルールにさえ背かなければ何をしてもいいのだと勘違いしたりするようになってしまうため、できる限り規則で縛らずに自分の心に従って行動することがいいと思われてきました。そしてこの考えは東洋全体に影響を与え、現代でもその傾向が見られます。 西洋では法はポジティブなイメージを持っており、自分たちの理想や目標を言葉にして表現することによって、人々がどうすれば最高の行動をとれるのかを示す手段として法を用いていました。そのため古代の西洋の国々では次々と法が設けられ、中でもローマ法は「人の尊厳の維持」を目標に設けられていたほどです。 この規則に対するイメージは法律に限らず、あらゆるところでその傾向を示します。たとえば西洋では学校の校則はとてもがっちりとしていて、分厚い本にして生徒に配布されている学校が多く見られます。それに比べると東洋の学校の校則はあまり厳しくなく、たとえば日本でも最低限の校則だけを設けて生徒の良心に任せるような高等学校や大学も増えてきています。 このように、東洋では規則で人を縛るよりも良心に基づいて行動した方がいいと思われているため、規則はネガティブなイメージを持たれており、それに対して、西洋では自分の目標を言葉で表現した方がいいため、規則はポジティブなイメージを持たれています。 また、これは東洋では規則のような「言葉」よりも自分の良心などの「心」の方が尊重されていて、逆に西洋では個人の「心」よりも規則として「言葉」にすることが尊重されているという、東西の本質的な違いによるものだと言えます。(差異が生じる原因―「言葉」と「心」参照) |
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