<2015.4.6.チーム170236制作>
だいじゃ【大蛇】
別 名 | 龍(五條)、ゴンジャ(山添村 |
出没地 | 洞川(天川村)、明神池(下北山村)、山添村、五條市 |
容 姿 | ○上牧町から川合町へ行くところの野山に、昔、大蛇がいたという。松の木ほどの大きさで、それを見た源六さんは、とうとう病気になって死んでしまったという。(※1) ○麦谷の吉野高校の演習林には、大きな蛇が棲んでいた。子供の頃、大蛇が脱いだ皮を拾ったことがある。その大蛇は長さ4m、うろこの大きさが10cmもあった。 大師堂のあたりで見た大蛇は、長さが4mぐらい、胴回り25cmぐらいで、頭は淡黄色、目はとてもやさしい大蛇だった。(※5) |
出没方法 | ○助命(山添村)の南、小原の仏が谷に、直径1mぐらいの奥深い洞穴で大蛇がすんでいた。ある時、村人が、横たわっていた大きな木に登ってグミをとって食べようとしたら、登っていた松の木がにわかに動き出した。それは松の木ではなく大蛇で、すぐに洞穴に戻っていった。それからその穴を「ゴンの蛇の穴」といい、その土地の名もゴンジャというようになった。(※2) ○聖宝尊者が大峰山再興のため洞川(天川村)に来た時、大蛇がいた。人に危害を加えるので、尊者はお経を唱え雄大蛇を退治した。雌大蛇は逃れて別の窟に入ったが、尊者は後を追い窟の入口を塞いでしまった。雄が退治された窟を蟷螂(とうろう)の窟、雌が閉じ込められた靴を蛇の倉と名付けられ今もある。(※2) ○明神池(下北山村)には、夜中に風も無いのに波が揺れると大蛇がでるという。七十年足らず前、昼でも大蛇が出るといって皆で見に行った。初午の時にも一週間近く毎日でたので、池原からも弁当持ちで沢山の人が見に行った。大蛇ではなく鯉だったという人もいるが、長さ三間もある大きなものだったとか、少なくとも一間はあったとか、見た人の印象はまちまちだった。(※3) |
事 例 | 北山村(五條市)に、昔、大龍が住んでいて村を荒らしまわった。ある日、一人の修験者が、龍を退治するために祈りを始めた。現れた龍は、今にも修験者にとびかかろうとしたが、修験者は手に持った数珠を振り上げてハシッと投げつけた。龍は3つに切れて地上に落ちた。村人は喜んだが、龍の祟りを恐れて、頭、胸、尾それぞれの落ちたところに寺を建立し龍を厚く弔った。今は、それらの寺の跡形もないが、3つの寺の仏像は、北山村草谷寺に残っている。(※4,6) |
アクセス | 草谷寺(外部のページへ) |
原風景 | 草谷寺(五條市) 明神池(下北山村) |
考 察 | 【性格・生まれてきた背景】 蛇は、自然神の使いあるいは自然神そのものとして、祀られてきました。一方で、自然は人間の生活にたびたび牙をむき災害をもたらします。そうした時は「大蛇」と化したかのようです。そして、自然との向き合い方を改めさせられます。 |
参考文献 | ※1)上牧町史編集委員会『上牧町史』(S52.12.1.上牧町役場) ※2)奈良県史編纂委員会『奈良県史13民俗(下)』(S63.11.10.名著出版) ※3)木村博一編著『下北山村史』(S48.3.31.上平高敬) ※4)稲田浩二・小沢俊夫編集『日本昔話通観・第15巻/三重・滋賀・大阪・奈良・和歌山』(1977.11.1.同朋舎) ※5)東吉野村教育委員会『東吉野郷土誌』(S47.3.1.) ※6)編集:奈良県童話聯盟、編纂:高田十郎『大和の傳説』(S8.1.15.大和史跡研究会) |