「父開高健から学んだこと」から

(開高道子著・文藝春秋)

千羽鶴

『 気の遠くなるような長い時間であった。
その手術が終わり、父はストレッチャーでリカバリールームに移された。 
六時間と少しは、執刀医の掛川ドクターが予定していた時間とほぼ同じで、手術は順調に、成功したと言える。
それでも耐え難い時間は無限に近かった。口中が渇いていて声も出ない。母が念じるように咽の奥から、わずかばかりの言葉を絞り出して執刀医に礼を述べるのを、どこか遠い宇宙の彼方の光の影のゆらぎのように眺めていた。
ちょうど三年前に、私は髄膜腫剔出の手術を受け、その手術は八時間あまりかかった。
終始、付き添った母に、どのような時間の重さがのしかかったろう、と省みる余裕を持つことができるようになったのは、リカバリールームの廊下をへだてた壁に沿って据えられたベンチに、母と並んで腰をおろして、さらに数時間を経てからであった。
信濃町のK病院で私が脳外科部長の執刀手術を受けた時は、ナースセンターの並びにセンターと一部屋置いた次の個室に運ばれ、そこで母はベッドの傍に四六時中、付き添うことが出来た。
峠をこすまで、そうして家族が不眠不休で患者に付き添うことが出来たことが、前頭部骨髄膜にできたテニスボール大の腫瘍を取り除くという厄介な手術後の回復に大きな支えになった、とは、リカバリールームに、いろいろな器具や管を身体に差し込まれて身動きもならず仰臥させられている父を、廊下でへだてられたベンチに腰掛けて、ただ祈るような気持ちで待つしかない歯痒さと不安にさらされて、切実に思い知るのであった。
父の入院先はJR田町駅からタクシーで二区間の料金距離だが、茅ヶ崎の自宅から通うとなると、田町駅まで二時間近くかかる。
従って往復すれば五時間弱、そんな時間のロスが許される状況ではない。母と私は病院から徒歩で十分くらいのホテルに一室をとって、そこから毎日、リカバリールームの廊下の向かい側の壁につけて置かれたベンチに陣取った。
近くのホテルから、父を看るために通院することにしたのは正解であった。
術後の最初の夜、九時の消灯後は、リカバリールームの右隣のナースセンターが明るいほかは、かろうじて各個室のドアが判じられる程度の照明を除くと、ほとんど 闇につつまれ、入院患者の外には当直のナースが二、三名と若いドクターひとりがセンターで書類を整理しているだけであった。そのドクターもどこかへ姿を消し、ひとり残ったナースも見えなくなる時があって、私と母は取り残されたベンチで顔を見合わせ、うなずき、そこを離れることにしたのだった。
入院患者以外、無人である病棟のフロアで、きめられた面会時間をとっくに過ぎて、たとえ患者の家族であったとしても、そこにとどまっていることの不都合を感じないではいられなかった。
どんな不祥事がおこるかもしれない時に、そのフロアの全責任をとることはとてもできないだろう。そういう恐怖を自覚させるために無人にしておくのだろうか。いろいろに悩み、迷いながらも、歩いて十分のところなら、と互いに言いきかせるようにして病院からホテルへの夜道を急いだ。
翌朝六時半には例のベンチに坐って、ナースセンターのカウンター傍らにとりつけられているモニターに刻々ときざまれる心搏、呼吸、体温に目をやり、リカバリールームのドアのすきまから、父の様子をうかがった。
ときどき痰が咽にからむ父のことを、センターでこれから始まる一日の看護のスケジュールにあわせた準備に忙しくしている朝番のナースに知らせる。とあとは御前午後の定刻回診の折に、医師団といっしょに入室して経過を拝聴し、疲れきって目をつむっている、頬のそげた父の土気色の顔をおずおずとのぞいて息をつめ、目を伏せて、すごすごとまたベンチへ母と戻るのだった。
ベンチに駆けると母はすぐにバッグから北里研究所付属東洋医学総合研究所所長の大塚慕男ドクターからいただいた漢方薬の著書を出して、つづきの頁に没入した。
東洋医学の活字にしがみついて、待ちの暗黒の時間をうっちゃろうとしている母の横顔を私はかなりのあいだ呆然としてみとれていた。
ふと、私ははじかれたように立ち上がっていた。
――ちょっと、そのへんを歩いてくるわ。
言い残して私は病院の売店へ向かっていた。
案の定、病院のそこには目的の物は見当たらなかった。そのまま、病院の外へ出た。
信号が青に変わるのを待ってバス通りを横切り、向かいの商店街を軒づたいに記憶にあった文具店をさがした。
それは三センチ角の色紙で、母の隣に戻ると、買ってきた包みをといて、カードをめくるように色分けを始めた。
読書をつづけたまま、母が囁くように
――千羽鶴ね。
と声をかけた。
なぜか、そのときまで全身にのしかかっていた得体のしれない胸苦しさが嘘のようにほどけて、私の指は敏捷になめらかに動いた。
父の恢復を祈りながら、三センチ角の色紙を一枚ずつ折っていると、ブラック・ホールへ引っぱり込まれそうな時間の夢魔を押しやることができた。
白と黒をぬきとったあとの赤、青、黄、緑とそれぞれの濃淡色の小鶴が紙の羽をひろげ、首を立て、尾羽をはねあげて群れ戯れる。群れはみるまに両手指の数をこえる。
千羽鶴は一日百羽をめやすに、十日で仕上がる。そう言いきれるのには、これまでに二千羽鶴――つまり千羽鶴を二度、折りあげたことがあったからだ。
父の母、私には祖母の急な入院さわぎがあった。幸い家の中での昏倒で大事にはなかったが、血圧が高いための用心からであった。娘のころは病弱だったときかされていたが、私の知っている祖母は親戚の若い人たちより元気であったから、高齢とはいえ信じられないことだった。
見舞いに千羽鶴を折って持っていった。
八七年から八八年にかけて、月刊「潮」誌に私と母とで毎月ゲストを迎えての鼎談連載をやった。ゲストとして坂東玉三郎、元横綱大乃国、衣笠祥雄、岡部幸雄、木下順二、銀座アスター社長、佐々木栄松画伯と、かわった取り合わせで登場ねがった。 七冠馬シンボリルドルフのジョッキーとして名を馳せた岡部幸雄騎手は、この年もリーディングジョッキー、年間最多勝、年間最多勝率で騎手三冠王の大賞を獲得していた。
祖母も岡部騎手も復活し、私は自分の千羽鶴に精霊の宿りを密かにたのむところとなった。


――チチの千羽鶴か。
病院のベッドで眠っているとばかり思っていた父が、いつのまにか、うっすら瞼を開いて、東京タワーが見える窓辺に吊るそうとしている鶴の房を見やって小さく呟いた。リカバリールームから何とか個室に移った日に間にあった。
しかし――。
父のために念じて折った千羽鶴は、ついには父の供をして天に舞い、翔んだ。
父の柩に父が生前愛用した万年筆や眼鏡やパイプ、そして私の千羽鶴を納めたのだった。
 ――丸まっちい太った手で、よくそんな小さい鶴が折れるなあ。ミチコ、東に病む人がいたら、とんでいって千羽鶴を折ってあげ、西に悩む人がいたら、走っていって千羽鶴でなぐさめてあげなさい。
父が目をつむる前に私に遺した言葉が、いまも私の心の中で生きている。祥月命日ごとに千羽鶴を折って父の祭壇に供養している。』

以上 「千羽鶴」 より全文

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