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コンピュータの発展と現在


もくじ



世界的企業 IBM

 PC-8001の発売は、大成功を納めました。では、日本ではなく、世界のコンピュータではどうなっていたのでしょうか。
世界のコンピュータの代表的メーカー、IBMは国際的巨大企業として世界的に有名な企業です。 IBMのルーツは1896年に設立された統計表作りを自動化する機械のメーカー、タビュレーティングマシン社にさかのぼります。
その後、タイムレコーダと自動計り機のメーカーをまとめた CTR を設立。第二次世界大戦後の1924年には、現在のIBM(International Business Group) に社名変更されました。
紙に穴をあける装置と、それを仕分ける装置、仕分けたデータを処理する装置をまとめた、「パンチ・カード・システム」をレンタル制で供給する商品によって、IBMは勢力を伸ばしていきました。

 IBMはその後もパンチカードシステムのノウハウを生かして、電子計算機の分野で大きな発展を遂げました。代表的な物に、UNIVAC、7000Series、事務用の1400Series、System360などが上げられます。
IBMもまた、パーソナルコンピュータの開発に着手しました。1980年の出来事です。 当時は Apple の AppleII が大きなシェアを獲得していました。 AppleII は、内部のアーキテクチャを公に公開しており、外部メーカによる周辺機器の発売など、 サードパーティーが入りやすい環境が整えられていたためです。

後の 1981年8月、IBMは 16bitパソコン IBM PC の発表に至っています。 CPUに Intel 8088、メモリは16KB(最大で256KB) 、ROMに納められたMicrosoft BASIC、ビジネスを意識した本格的なキーボード、5つある拡張スロットと、本格的な物に仕上がっていました。 外部記憶装置に当時一般的だったカセットテープレコーダも繋げられることもできましたが、グラフィックスに関しては、AppleIIの方が上でした。
しかし、オペレーティングシステムにMicrosoft BASICと、CP/Mとの互換性を持った PC-DOS を柱とし、CP/M-86も提供するなど、ユーザーが選択出来ると言った特徴もありました。
そして、もっとも注目する点は、IBM PCの徹底したオープンアーキテクチャでした。 回路図、技術情報から、BIOSの仕様に至るまで、全面的に公開していったのです。



PC-8801の発売

NEC PC-8801 パンフレット IBM PCが発売された頃、NECも 1981年 に2つのパーソナルコンピュータを発表しています。
一つは、コンピュータ入門機の PC-6001、もう一つはビジネス用途と言える PC-8801 です。

PC-6001は、初めてコンピュータにさわると言った一向けに開発されたもので、プログラムを収めたカートリッジ型のROMを本体のスロットに差し込んで電源を入れれば、すぐにゲームや学習物などのアプリケーションを使えるといったものでした。
NEC PC-6001 パンフレット PC-6001もまた、Microsoft BASICを採用していましたが、PC-8001のそれとは互換性が無く、PC-8001のソフトはそのまま使えませんでした。

 一方、ビジネス用途で使うことを意識して作られた PC-8801 は、解像度を PC-8001 のレベルから大幅に高め、複雑な漢字を表示できる基盤を整えてビジネス用途にも耐えられるようになりました。
しかし、実際の漢字ROMを標準搭載する所まではいきませんでした。これは、他社メーカーである富士通の FM-8 と同じです。
PC-8801は、パワーアップしたハードウェアを生かすため、Microsoft N88-BASICを採用。加えて、従来のPC-8001に搭載されていた N-BASIC を利用できる構造になっていました。

発表された2機種は、どちらとも8bitパソコンではありましたが、PC-8801においては 16bitパソコンである IBM PC に処理速度の面で勝っていたのです。
PC-8801は、16bit パソコンの一歩手前まで来ていたと言えるでしょう。



PC-9801の発売とシェアの拡大

NEC PC-9801 パンフレット  1982年10月、PC-9801発表。
PC-9801は、初の16ビットパソコンとして姿を現します。CPUにIntel 8086/5MHz、メモリ128KBというスペックに加え、 グラフィック処理スチップであるGDCや、PC-8801と互換のN88-BASIC(86)を内蔵していました。
N88-BASIC(86)は、一時期著作権の関係で問題になりましたが、著作権名やライセンス料を支払うことによって和解、そして発表に至りました。

PC-9801は、IBM PCと同じ16bitのCPUを採用していました。しかし、IBM PCは Intel 8088 と言う内部は16bitで処理し、外部との通信は8bitで処理するCPUを採用。しかし、PC-9801はIntel 8086と言う内部/外部処理共に16bitのCPUを採用しました。

BASIC上の互換性においては、前記の通り PC-8801 互換で、加えてPC-8001のF-BASICに関しても、カセットテープによって供給されました。

PC-9801の滑り出しは好調ではありましたが、ソフトウェアの本数が少なく、8bitパソコンを使ってきたユーザーが、より早いパソコンを求めてPC-9801に飛びつくと言った事はありましたが、肝心のビジネス層にはなかなか受け入れてくれませんでした。 しかし、しばらくするとPC-9801用と銘打った製品もソフトハウスから発売され、ようやく8bitパソコンに届くぐらいのソフトウェアの本数となりました。この間は、NECとソフトハウスの大変な努力によってなしえたことだと言えます。

大きな問題もありました。PC-9801には漢字ROMはオプション扱いで、漢字を印刷できるプリンタも用意されていませんでした。これでは、漢字を扱うアプリケーションが開発できなく、悩みの種となっていました。
そこで、早速漢字プリンタ PC-PR201 を発売。価格は 298,000円と、当時としては破格の値段だったようです。。
漢字の問題以外に、PC-9801にはディスクドライブが標準搭載されていなかったため、ソフトメーカはどの媒体で供給して良いのか分からない状態でした。

アメリカでは 1982年 に IBM PC の新機種、XTの発表をしています。XTは10MBのハードディスクを内蔵し、IBM PCのシェアはますます大きくなっていきました。
Microsoftは大量の情報を階層化により効率的に管理できるMS-DOS 2.0の開発などを行っていました。 PC-9801には、このようなソフトウェアが必要だったと言えます。既に MS-DOS 1.25はPC-9801用に用意していたものの、このような機能は搭載していませんでした。



 PC-9801のソフトウェアは、増えたと言っても依然とBASICで書かれており、そして売れるソフトはゲームでした。この頃、アメリカのIBM PCではOSにBASICではなく、CP/Mを採用し表計算やワードプロセッサ、データベースと多彩なビジネスソフトウェアが生まれ、 16bitパソコンになると、MS-DOSによって新たな時代が築かれようとしていました。

日本でも、この様な新しい技術をいち早く採用し市場に売りだしたメーカーはありました。三菱電機の Multi16 や、東芝のパソピアなどがそれです。 前者はCP/Mマシン、後者はMS-DOSマシンとして、送り出された物でしたが、成功しませんでした。 これは、日本のパソコンの重心はBASICだったためです。PC-9801が売れたのは、PC-8801に16bitCPUや、高速に描画が出来るGDC、そして互換BASICが搭載された、いわゆる「早いPC-8801」と言ったイメージが強かったためです。 BASICを使い続けたのも、理由があります。MS-DOSなどのOSを使うのであれば、それだけでメモリが食われてしまいますし、何よりユーザーが操作方法を覚えなければならなかったためです。 その点、BASICは電源を入れれば自動的にROMからBASICが読まれ、ディスクドライブから起動して、ドライブを使えるようにしたDISK BASICに関しても、ディスクから自動的にプログラムが読まれる仕組みになっていたため、BASICは中心的存在として普及したのです。



 BASICは逐次翻訳という性格上、どうしても高速になりません。そこで、NECはソフトウェアを早く動作させることの出来る CP/Mなどの OS に注目しました。
FDDを使うことを想定したマシンでは、電源投入時にIPLと言う、ディスクの先頭の部分を読み込む手順が、ROMに組み込まれています。これは、電源を入れたりリセットスイッチを押すたびに、マシンが自動的に行ってくれます。
つまり、この部分を応用すれば、ディスクを入れただけでOS上で使うアプリケーションを自動的に起動してしまう方法が採れるわけです。これが実現すれば、ディスクを入れただけで自動的にワープロなりビジネスソフトウェアがOS上で動いてくれます。 その上、ユーザーはその部分を知らずにワープロなどのソフトウェアが利用でき、この方法は自然とOSを導入できる、最適な方法だったのです。



NECは、OSのターゲットとしてMS-DOSを選択。Microsoftからライセンスを会得し、PC-9801用に移植を行いました。ソフトメーカに対し起動する際のバンドル料、つまりサブライセンス料は「いっさい対価を求めない」と言った物でした。 ソフトウェア普及のためには、この方法が最適だったのです。
さらに、BASICの命令をMS-DOSで動く機械語に変換するコンパイラも開発。MS-DOS普及のためには、こうした準備も必要なのです。



NEC PC-100 パンフレット その後、1983年にはPC-100やPC-9801Fの発売があります。PC-100は、文字を「絵」で表す方式を取り、PC-9801で取った文字を「数字」で表す方法とは対照的な仕様で、当時としては画期的な発想ではありましたが、文字だけを扱う場合は、圧倒的にPC-9801の方が早く あまり普及しませんでした。文字までを絵で表す方法は、CPUの能力を超えてしまっていたのです。 文字を絵で表す方法は、Apple の Lisa でも行われましたが、非常に高価だったために普及せずに終わりました。

IBMの日本支社である、日本IBMもまた、漢字が表示できるパソコンを開発しました。完成した機種は IBM PC/JX と名付けられ、1984年に発表。JXは CPU に Intel 8088を採用していましたが、IBM PC/XTをベースに日本語化したもので、これが失敗の元だったといえます。 Intel 8088は外部とのやりとりは 8bit で行うため、16bit化の波に飲まれてしまったのです。

後に日本IBMは、IBM PC/ATをソフトウェアのみでグラフィックスを使って日本語化する、PC-100と似たようなシステムを採用したOS、DOS/Vによってようやく日本語対応マシンを築き上げることが出来ました。1990年の出来事です。 PC/ATはPC/XTの最上位機種として発売されたマシンで、CPUにIntel 80286を採用、グラフィックスやインターフェイスを大幅に強化し、後に標準アーキテクチャとして生き続けることとなります。

日本IBMのPC/JXの失敗は、大きなダメージとなり、シェアを獲得することなく消えていきました。

NEC PC-9801F パンフレット 同年にはAppleのMacintoshが発売されています。MacintoshのGUIは洗練されたイメージがあり、価格帯も $2,495 と決して高くはありませんでした。しかし、メモリ容量128KBと少なく、フロッピードライブの容量も400KBと少なすぎたのが原因で目標をはるかに下回る販売台数 の低迷に苦しめられます。
ハードウェアの問題以外にも、ソフトウェアが少なすぎたという事も上げられます。
グラフィックスをメインに使うコンピュータの割にはRAM容量が少なすぎると言った最大の欠点は、PC-100にも言えます。PC-100のRAMは384KBとこれも少なく、共通する欠陥といえるでしょう。



1985年に Justsystemは 元々PC/JX用だったソフトウェアを、PC-9801に移植した jX-WORD太郎という名前で発売。同年8月には、PC-9801用のワードプロセッサとして 一太郎 を発売。 一太郎の発売は大成功し、MS-DOS普及に大きく貢献しました。
1987年にはEPSONからPC-9801互換機が発売。NECはすぐさま互換BIOSなどに著作権侵害があるとして、訴えています。この措置がとられて以来、他社からのPC-9801互換機は発売されていません。

この時点で、PC-9801は日本で圧倒的なシェアを占めていました。1980年代からおよそ10年間の間の話です。日本IBMからPC/ATに日本語を表示できるOS、DOS/Vが発表されるまでは、この状態が続きました。

1995年までに、PC-9801シリーズは累計で1000万台の出荷を記録しました。



Microsoft Windows の発売と現在

1995年になると、Microsoft Windows95が発表されます。Windows95はWindows3.1の後継OSで、パソコンの普及に多大な貢献をすることになります。
Windowsは、MS-DOS上にGUIを提供することを目的として開発されたもので、Windowsの源型ともいえる Windows1.0 は1983年に発売されています。しかし、Windows1.0はMacintoshのGUIなどと比べると桁外れに劣っていました。
当時 8086 などのCPUでは、Windowsを動かす為には力不足だったためです。
1987年には、ウインドウを重ね合わせることが出来る Windows2.0 を発表。しかし、Macintoshの見かけと使い勝手をコピーしていると訴えられ、Windowsの足を引っ張りました。
その後、1990年になってWindows3.0を発表。日本では 1993年の Windows3.1 によって、広く普及しました。

Windows95は、Windows3.1の使い勝手をさらに高めたOSで、機種間の差を取り払うために作られたOSでした。 機種間の差を取り払うことは以前のバージョンでも行われていましたが、きちんとした規格を定めていなかったために、あまり機種間の差は取り除かれませんでした。
Windowsは画面の情報をすべてグラフィックに任せるため、PC-9801の利点であるテキスト処理が生かされなくなります。そのため、PC-9801はDOS/Vの発表と共に徐々にシェアを落としていきます。
DOS/VはPC/ATで日本語処理をソフトウェアで行うソフトで、PC-9801と比較するとテキスト処理は劣っていましたが、Windowsの様なすべてグラフィックで処理を行うソフトに関しては、PC-9801のテキスト処理の利点は殆どなくなっていたのです。



1997年10月、NECはついに PC-9801 のアーキテクチャを捨て、PC/ATのアーキテクチャを取り入れたPC98-NXを発表、現在に至っています。これは、PC-9801を採用し続ける意味が問われたためです。この時点で、PC-9801のシェアは非常に落ちていました。
現在では、Windows95の発売もあり、ユーザーはハードウェアとの密接な関係を知らなくても操作できるまでに便利になってきています。これからは、さらにユーザーとコンピュータとの関係をさらに密接な物にしていくのが過大なのではないでしょうか。


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