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コンピュータの革命


もくじ



はじめに

 パーソナルコンピュータ、通称パソコンと呼ばれているコンピュータが、当時大型コンピュータを担当していた部門ではなく、当時はコンピュータとは無縁のICLSI を扱う部門で生まれた事をご存じですか?
パーソナルコンピュータの前身であるマイクロコンピュータは、1976年にNECで発足した「マイクロコンピュータ販売部」がきっかけではないだろうかと考えています。 個人用のコンピュータが生まれる前は図体の大きい大型コンピュータを利用していたわけですが、それをとても小さい半導体チップの中に押し込んだマイクロコンピュータは当時、斬新すぎて受け入れてもらえなかった様です。
当時マイクロコンピュータ部部長を任された 渡辺和也さん は、マイクロコンピュータをどのように利用するか苦悩していたと語っています。



電卓戦争の始まり

 マイクロコンピュータの発想が考えられる少し前、1971年には、日本国内でカシオ計算機SHARPを中心に電卓の低価格化戦争が起こっていました。
この電卓戦争に加わったメーカーの一つに、ビジコンがあります。 日本国内ではシェアが低く、あまり知られていない存在でしたが、アメリカ向け輸出はトップクラス。 1966年には当時40万円台が相場となっていた電子卓上計算機に、30万円を切り、しかも性能が従来機よりも上回った製品をデビューさせ、大きな衝撃となりました。
さらに、1971年にはポケット電卓の先駆けとも言える「てのひらこんぴゅうたあ」を発表。ビジコンは常に技術をリードしてきたのです。

 しかし、1973年の石油ショックによってビジコンは窮地に追いやられます。対米輸出をメインに経営を行っていた同社は、石油ショックに伴う円安で大幅な 為替 差損 を背負い、作れば作るほど赤字になる事態に直面してしまったのです。
1974年、ついにビジコンは倒産に追い込まれます。後にビジコンは、マイクロコンピュータのルーツとして歴史に名をとどめることになりました。

 では何故、ビジコンは他社より低価格化/高性能化が出来たのでしょうか。



演算プロセッサの革命

 低価格化をするには、製造コストを下げなければなりません。 そこで電卓メーカがとった行動は、一度に必要な生産個数を予想し、それから半導体メーカーにLSI設計 を依頼、設計したLSIの原版を予想した個数だけ作ってしまう方法をとりました。 こうすることで、最初に少しだけLSIをつくっておき、必要に応じて製造するよりも安く済むのです。
それに対し、ビジコンの採った方法は全く異なる物でした。ビジコンは、それまで「特定の機能を内蔵する」LSIから、「それ単体では動作しない」半完成品とも言えるLSIを利用することを考えました。

「特定の機能を内蔵する」LSIは、回路をコンパクトまとめることができます。しかし、裏を返せば他の機能をする部分へ流用が出来ません。これが何種類も異なる機能を電卓に持たせようとすると、その分だけ異なった機能をするLSIを用意しなければなり、そのためだけに 回路を設計しなければなりません。
それに対しビジコンは、「それ単体では動作しない」LSIに ソフトウェアを追加し、初めて機能する方式をとりました。 この方法は、半完成品とも言えるLSIに何か付け加えたい機能をソフトウェアで実装すれば、それ用のLSIに早変わり。「それ単体では動作しない」LSIを大量に作っておき、あとはソフトウェアで何とかする方式を取っておけば、コストが大幅に下がったのです。

 ビジコンは、このLSIの開発を当時はまだ規模がとても小さかったIntelに依頼しました。



 Intelは1968年に設立され、当時ビジコンの担当者とIntel側の担当者と共に設計に着手しました。
ビジコンはソフトウェアの追加により、異なった機能を持つ電卓用に特化したLSI、つまり電卓に限定したLSIで構わないと考えていました。 しかし、Intel側はこの考えをさらに応用し、「電卓にしかならないLSI」ではなく、「電卓にもなるLSI」を開発しようと考えたのです。
こうして1971年に生まれた世界初のマイクロプロセッサ、Intel 4004 は大きな可能性を秘めていました。



 この頃、アメリカでは 「ホームブルー・コンピューター・クラブ」と言う、マイクロコンピュータをどのように使うか、熱心に考えていたクラブがありました。
ホームブルーというのは、日本語訳すると手作り、「手作りコンピュータクラブ」と訳すことなようです。このクラブは後にコンピュータ界の代表的メーカ Apple を育て上げた スティーブン・ジョブズ や、 AppleIIを開発したスティーブン・ウォズニアックなど、多くの有名人が生まれていきました。

 マイクロコンピュータ販売部の渡辺さんは、このクラブとの出会いで、一つのマイクロコンピュータの方向性を見いだしたようです。



TK-80の発売

NEC TK-80  マイクロコンピュータは当時手探り状態でした。NECでもマイクロコンピュータを利用した商品で、唯一売れたのがキャッシュレジスターだったそうです。 当時のキャッシュレジスターは機械式で、金額を打つにも大きな力が必要だったため、それに伴う腱鞘炎は職業病とも言われていました。それに対し、マイクロコンピュータは電子式でキーに触れるだけで済みます。しかし、キャッシュレジスターだけでは 販売量が足りなく、それ以外にも開発する必要がありました。

 そこで、マイクロコンピュータを知ってもらおう考えたのが TK-80 と言う「教材」でした。 TKとは「トレーニングキット」の略。80は Intel 8080セカンドソースとしてNECが開発した uPD8080A から由来します。
トレーニングキットという名称からも分かるように、マイクロコンピュータとはどのようなものか、実際に組み立てて分かってもらう事を目的にしたコンピュータです。

価格は88,500円。10万以下に押さえられたのは、かなりの破格だったと言えるでしょう。

1976年8月3日に TK-80 は発売。翌月には秋葉原にサービスルームである Bit-INN が開設されます。



NEC TK-80 パンフレット  TK-80はそれ以来、当初予想もしてなかった凄まじい勢いで売れ始めます。しかし、TK-80には電源が付属しておらず、使うには個人で用意しなければなりませんでした。 凄まじい勢いで売れたのは、多くの人がオールインワンですべてが付属している家電製品のような感覚で購入していったため、これに関しては致命的だったようです。 実際、いざ使おうとして「電源は個人で用意してください」と言った状態では、多くの人は失望してしまうでしょう。

さらに、電源の問題以外に、追い打ちをかける様な問題が残っていました。まずは記憶容量、そして処理言語。記憶容量は 512byte と、実にフロッピーディスクの 約2500分の1です。これでは、正直何をやらせて良いのか分からない有様でした。
処理言語に関しては、機械語で入力していくという、 C言語などと比べると非常に低レベルなものでした。 また、表示する装置が赤いLEDのみだったため、自分がプログラムした文字が何をしているのか分からなかったのです。

機械語は 0 と 1 で扱いますが、それでは分かり難いので16進数でプログラミングしていきます。これは初期の大型コンピュータも変わりませんでした。 大型コンピュータは、時代が進むにつれて人間が理解しやすい記号に置き換えたアセンブリ言語、さらに進化して FortranCOBOL などが開発されました。 プログラミング言語では、それらを総称して高級言語と呼ばれています。
しかし、TK-80にはそのような高級言語はありません。いえ、高級言語を入れるようなスペースが無かったのです。

 「教材」として開発された TK-80 は、コンピュータの仕組みを理解してもらうためもものでした。しかし、一般には個人用のコンピュータとして認知されていたための大きな誤解。 マイコンブームの起爆剤として大ヒットした TK-80は、1977年に発売された世界で初の本格的パーソナルコンピュータ Apple の AppleII に比べると、天と地の差でした。 AppleII はそれと比べると、あらかじめBASIC言語が入っており、家庭用テレビにカラー表示できるなど、個人用コンピュータとしては十分な能力を持っていました。 この年は、他社からも本格的パーソナルコンピュータが発売されるなどして、「コンピュータ元年」と言われた年でした。



 TK-80は発売後に、TK-80ユーザーの間で色々な改良が行われていました。「TK-80で高級言語を扱う」事を目標に、何が必要になるかを考えていたのです。これらは、1976年に創刊された「I/O」や同年に創刊された「ASCII」などで言及されています。

マイクロコンピュータ販売部の渡辺さんは、ここに注目しました。このとき、「本体メーカー本体を作っておき、それを便利にするために他のメーカーが機械を出していく」サードパーティーの構造があったといえます。



COMPO BS の当時の雑誌広告  TK-80のユーザーによる改良が進み、それまでは別途用意しなければならない(それも自作で)電源が、NECとは関わりを持たないメーカーから「TK-80用」と銘打って発売されたのを始めとし、各周辺機器 (メモリ、インターフェイス回路など)が次々と発売されていきました。
ハード面以外にも、プログラミングのためのソフトウェアを導入する傾向も見られました。プログラミング言語にはBASICを用いたのですが、TK-80には512バイトしかRAM 容量が無いため、翻訳プログラムを入れるスペースがありません。 そこで、翻訳プログラムを小型にし、RAM 2KB で動かすことの出来るパロアルト版の TinyBASIC をASCIIで掲載。この翻訳プログラムは誰もが使うことが許されており、現在のオープンソースの様な感じのプログラムです。 動作に必要なメモリ容量は2KBと、512バイトの4倍の容量ではありましたが、その面は増設RAMで補う形で動かすことが可能でした。
この様に、ユーザーたちによる、それ単体では何に使って良いのか分からない製品を、実用になるように改良していきました。ここで TK-80 の進むべき道が開けてきたと言えます。

後に NEC は1977年に TK-80BS を発売。BSとはBasic Stationの略。TK-80BSはBASICを動かす為の部品をまとめた製品で、この様な製品でBASICを利用できる様になったのは、大きな進歩といえるでしょう。

しかし、ユーザーからは「キット品を自分で組み立てるのではなく、出来上がったコンピュータを使いたい」と言った声がありました。それを実現したのが COMPO BS。完成品のTK-80とTK-80BSを一まとめにし、電源と外部記憶装置にカセットデッキを採用し、それらを ケースに収めた形状のコンピュータでした。



個人用コンピュータの可能性

PC-8001 パンフレット  COMPO BSが発売され、個人用コンピュータの基礎が出来ました。しかし、NECでは新しい、次世代のコンピュータを開発しようと考えていました。初の本格的パーソナルコンピュータといえる、PC-8000シリーズです。 COMPO BSはTK-80の延長上にあるコンピュータ。TK-80は元々「教材」として開発されたものですし、それを拡張してゆくよりは、新たにコンピュータを設計する方が良いと判断したためです。

PC-8001もまた、BASICを搭載することになりますが、BASICのメーカーは何処にするのか決定していませんでした。 BASICのメーカーは、現在ではもっともメジャーな Microsoft の BASIC と、NEC の社内で開発された BASIC を搭載するか、といった所まで話が進んでいました。

Microsoftはビル・ゲイツらが起こした会社で、当時アメリカでのBASICのシェアが非常に大きく、勢力も十分な物でした。現在では、Microsoft Windowsなどにより、ご存じの方も殆どでしょう。
NEC社内で開発されたBASICは、Microsoftのそれと比べて高速な事が証明されていましたが、NECはMicrosoft製のBASICを採用しました。PC-8001の発売を成功させるためには、Microsoftの知名度を取るべきと言った意見があったためです。

PC-8001は、Microsoft BASIC が採用され、メインメモリ16KB、CPUに ザイログZ80互換 の uPD780C/14MHz 、そして目玉の8色カラー表示と、パーソナルコンピュータとしては申し分ない性能でした。
価格は、17万円前後と予定し、最終的には 168,000円 に決まりました。20万円を切っているという、驚異的な価格は、以前にICなどの集積回路分野を担当していたからなしえたことと言えます。なぜなら、ICなどの集積回路は6年ごとに1桁値段が安くなると言う定説がある 様で、それを狙って安く値段を設定できたのです。
TK-80との最大の違いは、TK-80の教材用の制作キットとしてではなく、パーソナルコンピュータとして最初から他の周辺機器に対応していることだったのです。

 1979年に「マイクロコンピュータ ショウ'79」が開催され、そこにPC-8001も姿を見せました。PC-8001の制作プロジェクトが始まった頃は、TK-80の様な売れ方はしないだろうと考えていましたが、予想に反してショウでは大反響。 その後、マイコン雑誌でもPC-8001の特集が組まれ、高い評価が与えられます。PC-8001は発売前から予約が殺到し、生産が全く追いつかないと言う事態にまで発展し、1979年 8月の発売以来、数ヶ月入手できない日々が続いたようです。



 マイクロコンピュータの仕組みを理解してもらうための教材として販売された TK-80。しかし、TK-80は担当者の思惑を大きく越えて発展しました。そして、BASICを使えるようにした TK-80BS 、BASICを動かすための機材をワンパッケージにした COMPO BS で、 TK-80 の 一つの個人用コンピュータ、すなわちパソコンのあり方が発見できたように思えます。TK-80シリーズは合計で7万台という販売台数を成し遂げました。
そして、パーソナルコンピュータとして作られた PC-8001。PC-8001は二年間で12万台も出荷をしました。個人用コンピュータの可能性が見えてきた時代です。 次の章では、ビジネス用コンピュータとして爆発的に普及した、PC-9800シリーズの発売から、現在までをまとめています。


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