ところが、元亀と年号が改まってからの二年半は、織田信長にとって四面楚歌といっても良いほど、周囲すべてが敵になった。
味方といえば、三河の松平元康あらため徳川家康くらいなものだ。
秀吉は、かつて伊勢では山路彈正に浅倉も味方だと口にしたけれど、
その朝倉義景が糸をあやつり、機内の武将やら比叡山の僧兵らをけしかけてくるのだった。
「朝倉攻めじゃ!」
ついに号をにやし、信長が号令する。
元亀元年(一五七〇)年も春になって、越前へと兵を送り出したものだ。十日の攻防で、その一乗が谷の朝倉も滅びるかと思われた寸前、
「殿っ、一大事、朝倉義景に味方して、浅井長政が兵を挙げました!」
との急報である。
「おのれ、やっぱりか。」