この歩兵だけで、秀吉は甲斐の騎馬ぐんだんをコテンパンにやっつけたものだ。
「斬りこめ!」
突進してくる武田の騎馬武者を、
「撃てーい!」
横三列にならんだ鉄砲隊が、かわりばんこに撃ってはしりぞく。
信玄のころより勇名をとどろかせた甲斐の騎馬軍団が、さんざんの敗北だった。
秀吉がまだ藤吉郎だったころ、長短槍試合で個人のわざを集団のわざにかえたのをおぼえておいでか。
これを鉄砲隊の三段うちに発展させたまでだ。
「筑前。良くやった。」
信長はもう、秀吉こそ天下一のいくさ巧者とみとめている。
むろんそのかげには、十年の間、ただの一度も秀吉を負けさせたことのない軍師、
竹中半兵衛がいた。
その竹永半兵衛重治である。天正七(一五七九)年の五月、ついに播州の陣中に帰らぬ人となった。
三六才の若さで死んだ半兵衛は、胸のやまいにおかされていたのだ。
「半兵衛よ。わしは悲しいぞ。」
このとき、四十三歳の秀吉、猿もどきの顔をくしゃくしゃにして男泣きに泣いたものである。