それから四年と半年にわたり、秀吉は姫路の城をきょてんとして、中国の毛利攻めにあたってゆくことになる。 毛利は、いまだに信長を敵とする本願寺の門徒に、せっせと武器やら食料をおくりこんだりしていた。
「おのれ毛利め。毛利をうたぬことには、近畿の平定はできぬぞ。」
 秀吉はみずから信長にねがいでて、長浜の城をあとにした。 この毛利攻めに、ニューっフェイスの軍師、黒田官兵衛も加わった。 黒田官兵衛、大先輩の竹中半兵衛ほど気品はなかったけど、なかなかの策略家だった。
 長篠の合戦で、もはや全滅に近いたでをうけた甲斐の武田だが、天正十(一五八二)年のゆきどけを見ず、 天目山で信長にほろぼされている。このとき上杉謙信は、すでに脳卒中でなくなっていた。
 有為転変は世のならい。つねに生きていなければ死んでおり、死んでいなければ生きているのが戦国武将というものだ。 さて、この先織田信長にはどのような有為転変が待ちうけているのか。そして秀吉には・・・・・・。

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