ついに天正十一(一五八三)年四月、越前は北ノ庄の城をうってでた柴田勝家と、 美濃から大軍を率いて攻め寄せた秀吉が賤が岳でぶつかる。 この戦は羽柴秀吉が勝って、柴田勝家は自害している。
「おい、賤が岳のいくさに勝った羽柴筑前は、大阪に城を築くらしいぞ。」
「それそれ。とにかく、手のつけられぬほど大きな城じゃというぞ。」
「図面にとてつもなく大きな○を書いて、これだけの城を作れ!と命じられた 普請奉行の石田三成も、加藤清正も、びっくらこいたそうな。」
という、巷の噂話は本当だった。
 ついに大阪に巨大な城ができたが、現在みられるような規模の大阪城だと思ったら、大間違いのコンコンチキだ。 あれはのちに、倹約を美徳とする徳川幕府が建て直したもので、月とスッポンほどの差がある。
 諸国の大名も、公家たちも、これほど大きな城の主を、自分よりも身分の低いものだとうそぶいていられるものではない。 ここで先のことに触れておくと、城の大きさに威圧された公家どもが、秀吉の関白に推挙した。 天正十三(一五八五)年、七月のことである。 関白とは、天皇をたすけて政治を執る最高の大臣だから、今の内閣総理大臣だと思えばいい。



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