長い乱戦の世も、今や終わりを告げようとしている。
小牧・長久手の戦が終結した翌年というから、天正十三(一五八五)年だ。
朝廷から使者が訪れる。うやうやしく差し出された関白推挙の書状を見た秀吉、
「ひゃ、ははは。おい彦右衛門よ、官兵衛よ。わしの先祖は藤原一門の血筋で、豊臣朝臣というのじゃそうな。
青公家ども、天下を治める人間が百姓のせがれでは、格好がつかないというのか。」
「よいではないか。せっかく、学者が調べてくれたのだ。関白の称号、もらっとけ。」
「むろん、もらわいでか。この称号で、日本中に号令をかけられるのじゃからのう。」
と喜んだ秀吉、まずはこのような号令をかけたものだ。
「諸国の大名のもとは、検地奉行をさしむけ、どれだけの米や作物が取れるか、日本中の農地を調べあげよ。」
これを、歴史の上では『太閤検地』というが、厳密にいえば秀吉が太閤の位におさまるのは、
まだ先の天正十九(一五九二)年だ。

「よいか。田畑や山林などすべての土地を測量し、これを石高で表し、年貢の負担地とするのだ。」
これも天下を安全にする政策とはいえ、農民から厳しく年貢米を取り立てるための見地だから、
「もはや秀吉には、尾張の中村の百姓が持っていた人情は、かけらほどもない。」
「ひとたび最高権力の座につくや、今度は反対に、秀吉はわしら百姓や町人をねじ伏せ、
押しつぶす人間になってしもうた。」